稼いだ70億円で天皇家と将軍家のメンツを保った
富子が悪女とされる理由がもう1つある。それは「金儲け」に走ったことである。
戦乱で国が疲弊するなか、富子は京都七口に関所を作って関銭を徴収。さらに、米の投機や高利貸しなどからワイロを受け取ることで蓄財に励んだ。
人々はそんな富子に反感を持つが、富子からすれば、応仁の乱で京が破滅的な状況のなか、厳しい財政を切り盛りするのに必死だったのだろう。夫の義政といえば、政治を放り出して隠居。子の義尚がたったの10歳で将軍になったのだから、富子がしっかりしないわけにはいかない。
富子のもとには、銅銭や刀剣などの贈り物が集まってきたが、それを私財として蓄財。現在のお金に換算すると、富子は実に70億円ほどの資産を有していた。
確かに「金の亡者」と言われても仕方がない部分はあるが、大切なのは使い道である。富子は、戦乱で疲弊した朝廷のために、献金や献品を行ったほか、内裏の修復や新邸の築造を行っている。さらに、戦乱で焼かれた神社・仏閣などの修復も積極的に行うなど、私財を投じて、天皇家と将軍家のメンツを保ったのである。
一方の夫の義政はといえば、飢饉によって人々が飢えているのもおかまいなしに、3代将軍の義満が造営した「花の御所」と呼ばれる大邸宅の再建に着手。 莫大な費用をかけようしている。
後花園天皇から和歌でたしなめられて中止したものの、こんな使い方に比べれば、富子のほうがよほどリーダーにふさわしいと言えるだろう。
実は、富子は応仁の乱で、畠山義就に撤退を促す際に、1000貫文を貸しつけている。富子は稼いだお金で、応仁の乱を終結させたのだ。これ以上の国益があるだろうか。
「強すぎる母」のハードモードの人生
ただ、強すぎる母を持つ苦しみが、息子の義尚にあったのかもしれない。権力志向の強い富子とはやがて対立。酒や女性におぼれて1489年に25歳で亡くなってしまう。その直後の1490年に夫の義政も没している。
夫と子を亡くしながらも、富子はたくましい。義視の子で義政の養子となった義植を将軍職に擁立。その義植からも反発を受けると、今度は堀越公方・足利政知の子、義澄を将軍につけて、自身の権力を手放さなかった。
名門のお嬢様に生まれて、将軍家の正妻という安定を手に入れたはずが、運命に翻弄されて、ハードモードの人生を歩んだ富子。後世の評価を聞いても「悪女だろうが、生き抜くためには強くなきゃならないのよ」と気にもしないだろう。
富子の死後、将軍家の権威はますます失墜し、群雄が割拠する戦国時代へと突入していく。