薩摩軍の捕虜となった琉球王国の官僚

徳之島で捕虜になった、琉球から派遣された貴人がいたのだが、その義父は三司官謝名親方鄭迥(じゃなウェーカタていどう)であった。薩摩に抵抗した謝名親方の最期は壮絶であった。

原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)
原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)

謝名は「閩人びんじん三十六姓」の一族で、外交・貿易業務を担う集団である久米村(クニンダ)の中から選ばれて三司官になった官僚であった。尚寧王(在位1589~1620)のときには三十六姓も六姓になっていたので、夏子陽は改めて2人に賜姓して梃子入れした。

外交・貿易は琉球の存立基盤であるため、久米村のトップは「王相」という王府長官になった。謝名もまた然りである。朝貢関係の官吏である謝名親方が、大和の要求を拒絶し続けたのは当然だ。島津氏の外交僧である大慈寺の龍雲や広済寺の雪岑せつぎん、坊津の商人鳥原宗安の度重なる交渉――徳川氏への聘礼と日明国交回復の仲介――も奏功しなかった。

最期は釜茹での刑ではなく斬首刑だった

鹿児島で忠誠を誓う起請文提出を拒否した謝名は、釜茹での刑に処せられたが、道連れに薩摩役人を引き込んだという。しかし『喜安日記』によれば、釜茹での刑は誤伝である。『喜安日記』には、「(1611年)9月16日申時計、首を刎ねられけるとぞ聞えける」とある。

謝名は斬首刑であったが、大正9(1920)年の後日談が琉球館跡にある(現在は鹿児島市立長田中学校が建てられている)。琉球人の亡霊の噂がある所から、首無し遺骨33体が発見されたのだ。その中に謝名の遺骨も混じっていたかもしれない。供養をしたら、亡霊の噂も消えたという。

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