※本稿は、原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
大久保利通を悩ませた島津久光と琉球王尚泰
明治初期、維新政府の大久保利通の頭を悩ませた2人の人物がいた。島津久光と琉球王尚泰である。
久光はかつての主君で「玩古道人」と自称する保守派。1871年の廃藩置県は久光への裏切りでしか断行できなかった。久光は花火を打ち上げて怒りを晴らそうとした。廃藩後も全国の旧領主層の輿望を担った久光への対応に大久保は苦慮し、「左大臣」の待遇で政府閣僚にしたものの、大久保の辞職を迫る久光に匙を投げざるを得なかった。
一方、1872年、久光の側近で外務官僚の伊地知貞馨は沖縄に渡り、『沖縄志』を編纂している。同年、維新慶賀使は「尚泰を琉球藩王と為し華族に列する」旨の明治天皇の冊封詔書を手渡された。この時点で、琉球は日本に組み込まれ、琉球藩となったのである。日本政府は「唐の世」を終わらせたかったのだ。
日本政府は「国家統治の証し」の準備に奔走
しかし、あいかわらず日中両属であった琉球の帰属は大きな国際問題であった。中国は冊封使が復命した多くの地志、地理書を持っていたが、日本に満足な地志はなかった。新井白石の『南島志』は琉球使節程順則や玉城朝薫からの聞書程度の書であった。地志は国家統治の証しとして備えておかねばならないものであり、伊地知の『沖縄志』の編纂の意図もそこにあった。
伊地知は1873年3月、沖縄へ出張し、久米・石垣・宮古・西表・与那国の五島に国旗を掲揚することなどの外務省指令を琉球当局に通達している。
大久保は何としても尚泰に東京へ移住してもらいたかったが、無理であった。日本では1871年から官営の郵便制度が始められていた。1874年に発足した万国郵便連合に1877年いちはやく加盟したのも、東京あてに沖縄からでも横浜からでも同一料金(郵便料金の全国均一制)ということをアピールしたかったからである。
そんな状況の中、1871年、歴史を変えた事件が勃発した。宮古島の役人ら66人が台湾に漂着し、54人が原住民に殺害されたのである。