沖縄は、かつては日本や中国・明と交易する「琉球王国」であり独自の文化が発展した。志學館大学の原口泉教授は「琉球には弓や矢といった武器がなく、『ノロ』という女神の祈願が戦う術だった。そのため鹿児島藩(薩摩藩)の琉球侵攻では大敗を喫することになった」という――。

※本稿は、原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

首里城
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琉球貿易の利権と奄美大島の領有を狙う鹿児島藩

1592年と1597年に、日本の関白豊臣秀吉は朝鮮に侵攻した。1591年、島津家第16代当主の島津義久は、秀吉の命令と称して、尚寧王に7000人の10カ月分の兵粮米を供出することを求めた。当時琉球は経済的な余裕がなく、その半分しか納めなかった。

島津氏の要求の背景に、秀吉との戦いや朝鮮出兵などで多大な軍役負担を強いられていたことがあげられる。島津氏は財政の立て直しのために、琉球を支配下に入れて琉球貿易の利権を得ようとしていたのだ。さらに島津氏は、当初兵粮米をなかなか納めなかった琉球に対し、奄美大島の割譲も要求した。奄美大島の領有も目論んでいたのである。

琉球王国は最後通牒に応じず、1609年に侵攻開始

1603年に江戸幕府が開設された。その前年に、仙台藩領内に琉球船が漂着したが、幕府の指示により、手厚い保護を受けて翌年琉球に送還された。その後鹿児島藩は琉球に対し、徳川家康への謝恩使の派遣を繰り返し要求したが、王府はこれを拒絶した。琉球王国は明との関係を第一に考えており、これ以上日本の影響力が大きくなるのを恐れたのである。しかしこの拒絶は、島津氏が琉球を侵攻するための格好の口実となった。

鹿児島藩による琉球侵攻は、明の冊封使の来琉(1606年)により一時見送られていたが、その3年後の1609年、島津氏は「家康に出兵の許可を得た。使節を派遣すれば、出兵は行わない」とする最後通牒をつきつけた。秀吉・家康によって北進の道を阻まれた戦国の雄、島津氏の牙が南に向けられたのである。琉球王国はこの最後通牒に応じず、戦端が開かれた。