沖永良部島の「馬鹿島」で起きた粟ガユの戦い
沖永良部島の正名集落はかつて「バーシマ(馬鹿島)」と呼ばれていた。当時は隆起サンゴ礁の台地上のため暗河のある水源地の住吉に水を貰いに行っていたのだが、不名誉な呼び名が定着してしまったのは水不足の土地であったからとも思われる。そのため、明治31(1898)年に農商務次官に就任し、農業振興に生涯を捧げた前田正名にあやかろうとして村名を変えたのだ。なお、現在の正名集落は、奄美一番の高収益の農業経営で表彰されている。
村名の由来については、水不足であったということ以外に、もう一つの説が伝えられている。それは琉球侵攻の戦いにまつわる笑い話である。正名集落の者が、攻めのぼってくる薩軍の足を熱い粟ガユでただれさせようとしたところ、かえって薩軍の食べ物になってしまったという。粟ガユは、悪霊払いの霊力を持つと信じられていたノロたちの呪術であったのであろう(『名瀬市誌』)。
海賊として活躍した奄美島人も刀狩りで無力化
また徳之島秋徳の戦いで、掟大八兄弟は丸太棒で戦ったが鉄砲には無力であった。奄美大島と徳之島での激戦を聞いた沖永良部と与論の世の主は、戦わずして降参するしかなかった。
「得能氏記録・琉球征伐記」は徳之島の激戦を記録している。「島民厳ク拒キ戦フ、薩軍コレト戦ヒ、数百人ヲ討殺シケレバ、島人大ニ恐レテ皆従服ス、永良部島ノ者トモハ薩軍ノ威風ヲ聞ケルニヤ、薩軍着船スルト等ク、草ノ風ニ偃カ如ク従ヒケリ」という手柄話である。
総大将樺山久高も斬首数百(三百余人)としている。この樺山が沖永良部島で、「一戦にも及ばず馬鹿者共」と言ったと「琉球入ノ記」は記している(『薩藩旧記雑録』後編四)。講談調の脚色があり、疑わしい部分もあるが、一面の事実は伝えていると思われる。樺山家では後世、戦没者の供養を続けている。
長徳3(997)年の何年か前、南蛮人(奄美島人)が大宰府管内の諸国を襲撃し大隅国人400人が略奪された(『日本紀略』、『小右記』、『権記』)。古代・中世の奄美人が勇猛な武者海賊であったことを鑑みれば、その後の尚真王の中央集権化のための武装解除(刀狩り)が、いかに徹底したものであったかが窺える。かつて奄美人が九州を攻撃していた時代と、薩軍の侵攻を受けた時代には大きな隔たりがあるのだ。
一方で、薩軍の戦死者はわずかであった。「味方ハ多くも亡び申さず候。やうやく雑兵一、二百人ほども戦死仕候由」と「惟新公御文抜書」は記している(『旧記雑録』後編四。惟新公は島津義弘を指す)。