明の使者が警告するも「恐れるに足りない」
1606年に来琉した冊封正使の夏子陽は、倭人(薩摩軍)の侵攻に備えるべきだと説いた。ところが、法司等官(三司官)の答えに夏子陽は愕然とする。「この事(侵攻)の噂は数年前からあって未だはっきりしていない。琉球の国には霊神があって頼りになるから、恐れるに足りない」
夏子陽は説いた。「倭は残忍でどん欲な心を持っている。軍備を強化しなければならない」。夏子陽は鉄匠を連れてきて武器を作らせ、防御を固めた。倭が来れば、固い備えがあるので、戦意を消失するであろうと言い残して帰国した。文禄・慶長の役(1592~93、1597~98年)で、豊臣秀吉の唐入り軍と4年間も戦ってきた明国からすれば、王国の危機意識の薄さを心配したのであろう。
夏子陽は、琉球は神威が支配する社会であると見抜いている。また『使琉球録』の中で、自分の考えに「夷人(琉球人)」が深く感銘して予防策を取ったと明皇帝に復命したことを記している。
この77年後(1683年)に来琉した尚貞王の冊封正使の汪楫の『使琉球雑録』にも、同様の記述がある。「琉球では弁才天という六臂の女神の霊異が特に著しく、皆が祀り敬っている。かつての明の使節(夏子陽)が国に城郭がなく、兵甲が少ない状態で外侮をどうやって防ぐのか? と尋ねると、女神がいるから大丈夫だと答えたが、その後、倭が忽ち攻めてきて殺掠甚だしく、王と王相を(人質に)取って連れ去ること久しい」。
弓や矢という名前さえ知らず、戦う術はノロの祈願
しかし、王府も警戒はしていた。『喜安日記』によると「去冬(侵攻の前年)徳之島へ与那原親雲上を派遣した(親雲上は位階の一つ。以前の位階である「大屋子もい」が転じたもの。なお、琉球王国ではペーチンあるいはペークミーと呼んだ)。しかし生け捕られてしまった」とある。与那原は「御立願の御使」であった。
薩摩軍側の従軍日記「琉球渡海日々記」に、徳之島深山の山狩りで、薩摩の隊長(「琉球入番衆主取」)が、「余儀無き人」をからめとったところ、三司官のうち謝名の婿で、黄鉢巻の位を持つ人であったと記している。
『喜安日記』には、「昔よりこの国は、弓箭(弓と矢)という名をだも聞かず、夢にも知らざる」とあり、ノロ(神女)の祈願が琉球の戦う術であったことがわかる。