自分の意見を言わず、部下に任せる
「私がキリンに入社したのは、広告が好きだったからです。当時は保守的なデザインがまだまだ多かったので、斬新な飲料のデザインを作ってみたいと思っていました。ジン(前田仁)さんと一緒に仕事をしたのも、清涼飲料のパッケージデザインが最初だったと思います。クリエイティブの仕事って、誰でも口出しできるじゃないですか。よくわかっていないのに、『ここはもっと赤いほうがいい』などと言ってくる人がいる。直してもあまり変わらないのに。そうやって口出しするのが仕事だと勘違いしている人がいるんですよね。でも、ジンさんは違いました。いろいろ自分の意見もあるだろうに、余計な口出しをせず、『ここから先は任せる』と言ってくれる人でした。文化や芸術にも理解があって、実際クリエイターとも広く交流を持っていました」(しりあがり氏)
氏が指摘するように、前田仁は広告代理店や、アーティストなどに、広い人脈を持っていた。
「暗黒舞踏」で有名な、舞踏家の田中泯氏とも、交流があったという。
「ジンさんは自分の趣味をちゃんと持っていました。ハートランドの時に、ビアホール・ハートランドというお店を作ったのですが、つたの這う古い建物を使っていました。あれは前田さんの世界観だと思います。それくらい、デザインについても一家言ある人だったのですが、あまり細かいことを言わず、こちらに任せてくれました」(しりあがり氏)
ヒット商品を連発した不世出の天才
ビールの「ハートランド」「一番搾り」のほかにも、発泡酒の「淡麗」「淡麗グリーンラベル」、缶チューハイの「氷結」、第3のビール「のどごし」など、前田が関わったヒット商品は枚挙にいとまがない。
ヒット商品を開発した人物はたくさんいるが、生涯でこれほど数多くの、しかもジャンルをまたいだヒットを世に放ったのは、おそらく前田仁くらいではないだろうか。むしろ、一本だけでもヒットを打てたなら、その人は会社の中でヒーローだった。
少なくとも、ビール業界では、前田仁は「規格外の天才」だった。
しかも、前田はマネジメントにも優れ、しりあがり氏をはじめ、多くの元部下たちが、今もなお前田仁を慕っている。のちにキリンビバレッジの社長として、経営においても手腕を発揮することになる。
日本はいま閉塞感に包まれている。国も、企業も、「古い日本のやり方」を捨てられず、新しい分野に挑戦することができていない。
結果、じわじわと国力が低下し始めている。
そんな日本に今必要なのは、「しがらみにとらわれることなく、新しい価値を生み出せる人材」ではないだろうか。
今の日本で、前田仁が歩んだ人生は、きっと示唆に富む「参考書」となるだろう。
1981年、多摩美術大学グラフィックデザイン専攻卒業後、キリンビール株式会社に入社し、パッケージデザイン、広告宣伝などを担当。1985年、単行本『エレキな春』でデビュー。パロディーを中心にした新しいタイプのギャグマンガ家として注目を浴びる。1994年に独立し、その後は幻想的あるいは文学的な作品などを次々に発表。新聞の風刺4コママンガから長編ストーリーマンガ、アンダーグラウンドマンガなどさまざまなジャンルで活動を続けるほか、映像、現代アートなど多方面で活躍している。