キリンビールの数ある商品群の中で、戦後最大のヒットとなった「一番搾り」。このキリンの看板商品は、一人のマーケターが開発した。その男の名は、前田仁。変化を拒む巨大企業で権謀術数うず巻く中、彼はいかにしてヒット商品を生み出したのか――(前編/全2回)。

※本稿は、永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

スーパードライという核弾頭

キリン「一番搾り」の開発が始まったのは、89年1月だった。

開発を担当したのは、新商品開発を専門とするマーケティング部の第6チーム。そのリーダーに当時39歳だった前田仁が就いた。

73年にキリンに入社した前田は、営業などを経て、新商品開発を担当するマーケティング部へ異動し、一風変わったビール「ハートランド」などを手がけた。

当時、ビール業界では、87年3月に発売された「スーパードライ」が群を抜く大ヒット。アサヒの快進撃の最中だった。

「スーパードライ」の勢いを何としても止めなければならない。

そのための新商品として、「一番搾り」の開発がスタートする。

前田はまず、社内の優秀な人材を、部門の垣根を越えて集めることから仕事を始めた。入社5年目で名古屋工場醸造課に直近まで勤務していた舟渡知彦(84年入社)ほか、その後キリンの中核を担う人材が集結する。

「一番搾り」の広告は電通が担当したが、その電通側の人選すら、前田がやったという。

プロジェクトに参画した電通は、すぐ次のような提言を行った。

「アサヒはスーパードライという核弾頭で戦っている。一方、キリンには小さな武器しかない。キリンにも核弾頭が必要だ」

「核弾頭」とはいかにも大げさだが、こうした単語のチョイスが当時のビール商戦の激しさを物語っている。

ちなみに「スーパードライ」でアサヒが使ったのは博報堂である。こうしたところにもキリンとアサヒのライバル意識が垣間見える。

キリン一番搾りとアサヒスーパードライ
写真=時事通信フォト
キリン一番搾りとアサヒスーパードライ

一言多いリーダー

「舟渡、出かけるぞ」

前田はよくそう言って、オフィスを抜け出していたという。

「オフィスにこもっていても、いいアイデアは出ない。それよりも、いろんな情報を集めることが大切だ。情報は待っていてもやってこない。こちらから出かけて集めるんだ。プロデュース力と発信力のある人には、良質な情報が集まっている。そういう人を探して会いに行くようにしろ」

移動のタクシーや地下鉄の中で、前田は一回り若い舟渡にそうアドバイスしていたという。

舟渡は滋賀県大津市生まれで、京都大学農学部農芸化学科を卒業後、キリンに入社している。前田のチームに来る前はずっと工場で作業服を着て働いていた。測定器のメーターを睨みながら、発酵の状態を日夜管理するのが仕事だった。

だが、いまはスーツを着て、東京でマーケティングの仕事をしている。これで戸惑わないほうがおかしい。

舟渡から見ると、前田はスーツの着こなしもスマートで、カッコいい上司だった。ビアホール・ハートランドの店長として人前に立った経験からか、前田は見られることに慣れているようだった。

相手が大物でも、前田は自然体で接していた。もちろん最低限の敬語は使うが、過剰にへりくだることはなく、ニヤニヤしながら軽妙な返事をしていたという。技術系の舟渡はこうした前田の振る舞いに最初は驚いた。

もっとも、前田がずけずけものを言うのはいつものことだった。キリンの社内でも前田は怖いもの知らずで、ストレートな物言いをしていた。役員クラスを相手にしても、前田は一切忖度しなかった。

舟渡が一番驚いたのは、むしろそうした社内での振る舞いのほうだった。前田はチーム内の会議で「あんな考えのオッサンがいるから、キリンはダメなんだ」と、会社幹部を名指しで批判し、平然としていたという。

舟渡はそんな前田を頼もしく思う一方、「前田さんの振る舞いが面白くない人もいるに違いない」と心配になったという。

前田は舟渡にこう言っていたという。

「自分はマーケティングの素人だからと、遠慮することはない。技術者目線で気づいたことは必ず伝えるように」

前田はメンバーの専門性や個性、人間性を大切にする上司だった。

一言居士いちげんこじ」の前田の後ろ盾になったのは、マーケティング部長を務めていたのは桑原通徳だった。前田が信念を貫けたのも、桑原のおかげという面があった。

しかし、ビアホール・ハートランドの桑原は常務取締役となって大阪支社長に就任、マーケティング部を離れてしまう。桑原が大阪に行った以上、前田も少し自重したほうがよかった。だが、前田は、従前と同じストレートな言動を貫いていた。