前代未聞の社内コンペ

「スーパードライに対抗する大型定番商品は、いまのキリンに必要不可欠である。よって、企画部でもマッキンゼーとともに大型商品を開発する」

突然、企画部からこのような提案がなされた。

もちろん新商品開発はマーケティング部の仕事である。企画部の仕事は、組織・業務改革、会社全体の予算管理、そして戦略立案など。その企画部が、本来は黒衣くろこのはずの外部コンサル会社マッキンゼーを巻き込み、具体的な商品開発を始めるという。キリン社内に波紋が広がった

「80年代のキリンは、外部のコンサルが大好きでした。本社のスリム化、販売組織の変更、成果型の人事評価システム導入など、社内改革にコンサル会社を使っていました。中でも特に食い込んでいたのがマッキンゼーでした」

キリンOBの元幹部はこのように証言する。

永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)
永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)

そうした社内事情が影響したのか、企画部の前代未聞の提案は、通ってしまう。

前田のマーケティング部第6チームと、企画部およびマッキンゼー混成チーム、両者を競争させ、どちらか一方を採用するということになったのだ。

ちなみに、企画部とマッキンゼー混成チームの名称は、DBS(デベロップメント・ビア・ストラテジー)。ビール商品戦略の一環として、大型新商品を開発するというつもりだったようだ。

「ラスプーチン」あらわる

当時、キリンの商品開発は迷走が続いていた。

88年に発売したドライビールは思うように売れなくなっていた。

89年2月から4月にかけて4つの新商品を立て続けに発売し、これを「フルライン戦略」と銘打って商戦に臨んだが、いずれも不発だった。

相次ぐ新商品の失敗により、この年(89年)のキリンは22年ぶりにシェア50%を割り、48.8%で着地。凋落ぶりを印象づける結果となる。

さて、「DBSチーム」を動かしていたのは、企画部のある最高幹部だった。人呼んで、「キリンのラスプーチン」。

キリン社内では「切れ者」「策士」と評される人物だが、「米欧への出張に料金の高いコンコルドを使う」

「他人の手柄を平気で横取りする」

「『天皇』と称された本山(英世)社長に取り入って、虎の威を借りている」

など、悪評も多い人物だった。

その「キリンのラスプーチン」は、ウイスキー関連の子会社キリン・シーグラム(現在はキリンディスティラリー)への出向から、本社に戻ったばかりだった。

それにしても「ラスプーチン」とは相当な言われようだ。よほど反感を買っていたものと思われる。