キリンビールの「ハートランド」は、れっきとした純国産ビールだ。しかし、緑色の瓶には「キリンビール」と書かれておらず、海外ブランドのような空気をまとっている。手がけたマーケター・前田仁氏は、社内で「規格外の天才」と呼ばれ、ほかにも「一番搾り」「淡麗」「氷結」「のどごし」といったヒット商品を作った。前田氏の部下だった漫画家のしりあがり寿氏が、その仕事ぶりを明かす――。

しりあがり寿が影響を受けた天才マーケター

「会社って、どうしても『体育会系』なんですよね。上下関係が厳しくて、いつも上を見ていなきゃいけないし。僕みたいな美大出身の人間からすると、そういう『タテ社会』には、どうしても違和感を覚えてしまうところがあるんです」

そう語るのは、漫画家・しりあがり寿氏である。

2001年に漫画『弥次喜多 in DEEP』で第5回手塚治虫文化賞を受賞したほか、宮藤官九郎氏や庵野秀明氏が作品を映像化するなど、90年代から00年代のサブカルチャーに多大な影響を与えたクリエイターだ。

しりあがり氏は、多摩美術大学を卒業した後に、キリンビールのマーケティング部でサラリーマン生活を送っていたことがある。漫画家としてデビューした後も、サラリーマンと漫画家の二足のわらじを履いていたという。

そのしりあがり氏には、キリンビール時代に大きな影響を受けた上司がいる。

それが、「天才マーケター」として、業界では知る人ぞ知る存在だった、前田ひとし(1950~2020年)だ。

役員相手でも平気でモノを言う

「キリンのような大企業で偉くなる人は、やはり周囲から尊敬される人、いい人ばかりです。大学や、アルバイト先ではなかなか出会えないような、本当に尊敬できる大人がたくさんいました。その中でも、ジンさん(前田仁)は特に印象深い人でした」(しりあがり氏)

しりあがり寿氏は、キリンビールのマーケティング部で、「ハートランド」や「一番搾り」といった、今に至るキリンビールの看板商品の開発プロジェクトに関わる。

その両方を開発したのが、前田仁だった。

前田仁氏について語るしりあがり寿氏
撮影=豊島望 写真提供=キリンホールディングス
前田仁氏について語るしりあがり寿氏

「実に飄々ひょうひょうとした人でした。組織の中にいると、他部署から理不尽な要求を突き付けられたり、上司の評価が気になったりと、どうしても組織のしがらみにとらわれてしまうものです。ただ、ジンさんには、そういうところが皆無でした。出世したいようにも見えなかったし、相手が役員だろうが上司だろうが、平気で意見を言う人でした。組織の中で汲々きゅうきゅうとするところが全くなかった」(しりあがり氏)