缶チューハイ市場に最後発で参入しながらシリーズ累計販売本数175億本超(250ml缶、2022年3月末まで)の大ヒット商品となったキリンの「氷結」。ベース酒にウオッカを採用したり、特殊なアルミ缶を採用するなど当初から画期的な商品だったが、じつは「氷結」は子会社の社員が開発した商品だった。保守的な伝統企業のなかにあって、それまで光が当たらなかった“異質な人材”を活かし、この革新商品の開発を成功に導いたのは、「一番搾り」「ハートランド」「淡麗」などのヒット商品を次々に生み出した天才マーケッター・前田仁だった――。

※本稿は、永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

最後発ながら市場を変えた「氷結」

キリンの戦後最大のヒットとなった「一番搾り」はじめ、「ハートランド」「淡麗」などキリンを支える商品を世に出したマーケッター・前田仁(1950~2020年)。数々のヒットを生み出した前田だが、部長時代の功績としてひときわ大きかったのは、缶チューハイに最後発で参入しながら現在も最大ブランドとなっている「氷結」の開発だったろう。

ヒット商品を改めて定義するなら、単品が売れたというだけではなく、市場そのものを拡大させる基点となった商品と位置づけられる。

その点、「氷結」はまさに缶チューハイ市場の転換点となった商品である。「氷結」が登場してから、缶チューハイを中心とするRTD(Ready To Drink)市場は、一気に拡大する。01年7月11日と夏場シーズン終盤に「氷結」は発売されるが、01年のRTD市場は35万klの規模だった。これが、コロナ禍の2022年は163万klと、21年間で約4.6倍も成長したのだ。

誕生から20年、飲みやすさと手ごろな価格で売り上げを伸ばし続ける缶チューハイ
写真=時事通信フォト
誕生から20年、飲みやすさと手ごろな価格で売り上げを伸ばし続ける缶チューハイ=2004年01月09日、東京・葛飾区の酒市場ヤマダ亀有店

メンバーの感性を大切にしたリーダー

「氷結」の開発が始まったのは1999年10月。

子会社の洋酒メーカー、キリン・シーグラム(02年からキリンディスティラリー)のブレンダー(技術職)だった鬼頭英明とマーケッターの和田徹が私的に始めたプロジェクトであり、実は商品化のメドは立ってはいなかった。

前田は「一番搾り」を開発した直後の1990年3月に、突然左遷されてしまう(背景や経緯は『突然の子会社への左遷…不遇の7年半を耐えた「キリンの半沢直樹」の痛快すぎる"倍返し"の中身』https://president.jp/articles/-/60523)。

雌伏にあった93年春から97年秋まで、キリン・シーグラムにマーケティング部長で前田は出向していた。このとき鬼頭と和田の2人は前田の部下だったのだ。

鬼頭は言う。

「前田さんはメンバーの感性を大切にしました。ブレストを頻繁に行ったけれど、決して結論を求めなかった。なのでメンバーは自由に発言し、発想を広げることができました。そのため、チームはいつもモチベーションが高く、みんな仕事を楽しんでいました。理系出身で感性より理論が先行するタイプの私が、いろいろなアイデアを出せたのは前田さんのお陰」
「また、前田さんのブレストでは、オフィスを出ていろいろな場所に移動して行くことが多かった。閑静な南麻布の貸し会議室だったり、森の中の施設だったり。前田さんは『場所を変えると、人は新しい発想を生みやすくなる』と話してました」

移動で地下鉄に乗ると、「週刊文春と週刊新潮の中刷り広告を、比較して見てみろ。同じ事件を扱う記事の見出しが違っている。君たちはどっちが好きか。また、編集部には、どんな意図がそれぞれにあったと、君たちは考えるか」などと、吊革につかまりながら前田は語りかけたという。

この頃の前田はよく、「前例がないことをやるから意味がある」と、メンバーに訴えていたそうだ。