雌伏の時を経て返り咲いた2人の天才
スティーブ・ジョブズと前田仁――。
かたやアップルを創業してiPhoneはじめ世界的ヒット製品を次々と生み出したIT業界のカリスマ経営者。
一方の前田仁は、ビール業界の雄キリンで「一番搾り」をはじめ「ハートランド」「淡麗」「氷結」などを開発し、数多くのヒット商品を世に出した天才マーケッター。
まったく異なる業界で活躍した2人だが、今なお語り継がれる2人の天才の足跡を振り返ると、いくつもの共通点が見えてくる。
アメリカでは「一番優秀な人は起業し、次に優秀な人は大手企業に就職、一番できの悪いのが公務員になる」とされ、日本では「この逆の並び」などと長年指摘されてきた。1955年生まれのスティーブ・ジョブズは、76年に友人と起業してアップルを創った。
前田は1950年生まれの、いわゆる団塊世代。就活した72年は、大企業を中心に日本が高度経済成長を続けていた時代。大学を卒業した翌73年、三菱系でシェアは6割超の超優良企業だったキリンに入社する。
2人とも、日米それぞれのビジネス文化のなか、“王道”を歩む形で世に出た。
スティーブ・ジョブズ(1955~2011年)は、自身がペプシコから引き抜いたジョン・スカリーにより、アップルを1985年に追われてしまう。直後に、ジョブズは「ネクストコンピューター」を設立。経営が傾いたアップルに、ジョブズが復帰したのは96年12月だった。その後、ジョブズが主導してアップルは息を吹き返していったのは周知のとおりだ。
一方の前田仁は、1990年3月に大ヒット商品「一番搾り」を開発したのに、発売と同時にワイン部に異動させられてしまう。さらにその後、子会社に出向となる。
90年代半ばから、アサヒビールによるキリン猛追が始まる。その結果、97年9月前田は急きょ、商品開発部長として本社に復帰。最年少部長だったが、わずか4カ月の開発期間で、キリン初の発泡酒「淡麗」を商品化しヒットさせる(詳しくは、「突然の子会社への左遷…不遇の7年半を耐えた『キリンの半沢直樹』の痛快すぎる"倍返し"の中身」)。
スケールの違いはあるし、ジョブズが起業家なのに対し前田はあくまでサラリーマンである。が、長期にわたり“雌伏の時”を経て、復帰した会社で誰もが知るヒット商品を連発して返り咲いた、という点で2人は重なる。
言いたいことは忖度せずストレートに言う
「若くてハンサムだが、この人は強烈なカリスマ性をもっている」
キヤノン電子社長の酒巻久が、ジョブズに初めて会ったのは80年代前半、大田区下丸子のキヤノン本社でだった。先の言葉は、そのとき抱いた第一印象である。ジョブズは、山路敬三(後にキヤノン社長)や酒巻らキヤノン技術陣を前に言い放った。
「プリンターはパソコンの奴隷なのに、大きすぎる。私の本棚には載らない」
天才と呼ばれた男が発した一言で、キヤノンはここからプリンターの小型化に取り組み、そのお陰で今でもプリンター事業を存続させている。
天才、そしてカリスマと呼ばれる人間は、ストレートに言いたいことを言う。忖度をしない。
前田は我が国のビール業界で、複数のメガヒットを飛ばした唯一のマーケッターであり、若い時から一言居士を貫いた。80年代半ばのビールと言えば「キリンラガー」一択だった時代に、「大量生産、大量販売の時代は終わり、心を動かす製品の時代に移る」と主張。ラガーをぶっ潰す目的から、専用グリーンボトルで麦芽100%ビールの「ハートランド」を開発した。
さらに、六本木にはハートランドを提供する直営店「ビアホール・ハートランド」を開設し、初代店長は前田が務めた。
閉店までの約4年間で来場者数は56万人を数えただけではなく、店は世界に向けた文化の発信拠点となる。音楽や演劇、舞踏などのライブイベントが定期的に行われ、絵画は常設展示されていた。
店のオープニングイベントがきっかけで、前田は前衛舞踏家の田中泯と懇意な関係になるなど人脈を広げるが、ビール会社のサラリーマンという枠を超えた存在となっていく。