“朝令朝改”の異才
酒巻はジョブズのモノ作りについて、「デザインへのこだわりは、とにかく凄い。技術者なら誰でも抱く合理的な発想を捨て、デザインを優先できるから」と指摘する。
もっとも、カリスマのジョブズと酒巻は、しばしば対立した。
「こんなデザインでは、コストが見合わない」と酒巻が切り込むと、「こうしなければ、売れないんだ」とジョブズは返す。そんなとき、ジョブズの自尊心を逆撫でするように、酒巻は彼との面談の約束をあえてすっぽかし、ゴルフに出かけてしまう。
「私との約束を破れるのは合衆国大統領と、数人しかいないのに」
ジョブスは激怒する。ジョブズという人間を見抜いた酒巻がとった作戦だが、しばらく2人は口も利かなくなる。それでも、深い部分では互いを認め合っているため、決して絶縁をしない。やがて、妥協案が浮上し、シスコの寿司屋で手打ちをする流れだったそうだ。
これに対し、前田の場合は伝統企業のなかでの異才だった。いわば、IBMのなかにできたアップルのようなもので、そこからヒット商品を連発させた形だ。
佐藤は言う。
「ジンさんは信念の人であり、例えば開発の方向性は変えない。しかし、朝令暮改でなく“朝令朝改”なほど、方針は柔軟に変えた。『一番搾り』のネーミングにしても、ジンさんは『キリン・ジャパン』という仮の名前を気に入っていた。しかし、消費者調査のスコアが低いと躊躇なく変えた。開発チーム内で自身の考えが否定されても、平気な人でした。自分をも、どこか第三者的に見ることができていた。ジンさんの基準はいつも『お客様がどう見るか』にあったから柔軟だったのでしょう」
ビアホール・ハートランドに限らず、前田はいくつかの直営店を出店し、自身や部下が“お客様”と接する場を作っていたのだ。「メーカーは消費者を知らない」(スーパー幹部)という指摘は、前田には当たらない。
また、カリスマと呼ばれた前田は、部下の開発プロジェクトを社内で徹底して守った。
日本のモノ作りは、かつての栄光とは裏腹に、劣勢に甘んじて久しい。イタリアのような「観光立国」に転換していくならともかく、モノ作りの再興を目指すなら、カリスマリーダーが本当は求められるのではないか。複数の会社や組織から優秀な人を集めた共同開発は、時間と金がかかるだけで先に進めない。過去の栄光を捨てられる、強烈なリーダーを擁立できるなら。