「キリン一番搾り」「淡麗」「氷結」「ハートランド」など多くのヒット商品を世に出した天才マーケター・前田仁は、実績を出しながらも40歳の時にいきなり左遷の憂き目に遭う。そんな経験を持つ前田は、部下に対してどう接して、どのように人を育てたのか。今も多くの元部下に慕われている“キリンの半沢直樹”の人づくりの極意に迫る――。

厳しかったが部下を守る上司だった

「出る杭は打たれる」のは世の常である。

数多くのヒット商品を世に出し、天才マーケターと謳われた前田ひとし(1950~2020年)も、その例外ではなかった。

キリンの戦後最大のヒット商品「一番搾り」を開発したにもかかわらず、発売直後の1990年3月に閑職に追われ、その後、子会社に左遷。雌伏の時は7年半に及んだ。

その間、低迷を続けたキリンは、97年に前田を本社に呼び戻す。約50人が所属する商品開発部(マーケ部)の部長として。

本社の最年少部長となった前田は、復帰からわずか4カ月で「淡麗」を開発し大ヒット。その後も「氷結」「のどごし〈生〉」などのヒット商品を連発する。

その波乱万丈なマーケター人生を拙著『キリンを作った男』にまとめたところ、読者から「半沢直樹のような物語」という声がいくつもあがった。巨大組織のパワーゲームの中で信念を貫きながら逆境を乗り越え、結果を出し続けた前田の姿が、多くのビジネスパーソンの共感を得た企業ドラマの主人公を彷彿させたのかもしれない。

そんな前田が今も多くの部下たちから慕われているのは、マーケターとして実績を出し続けたという理由だけではないだろう。

上級管理職として多くの部下を育てた前田は、決してやさしい上司ではなかった。むしろ、部下を叱責することもある厳しい上司だった。だが、つねに部下の働きぶりを見ていて、いざという時には、たとえ自身が損をしても、社内の批判から“部下を守る”上司でもあった。

会議室が静まり返った前田のひと言

前田がマーケティング部長の時に、経営会議の席上でこんなやりとりがあった。

「マーケティング部のブランドマネージャーは、レベルが低いのではないか。他の消費財メーカーと比べてね……」

スタッフ部門の常務執行役員がこんな発言をする。すると、間髪を入れずに前田は毅然と言い放つ。

「何を言うのです。ウチの林田(昌也・後にマーケティング部長)、上野(哲生・淡麗グリーンラベルの開発責任者)、そして山田精二(一番搾りとハートランドのブランドマネージャーを経験)。この3人は、食品でも日用品でも、どこの消費財メーカーに出してもエースになれる逸材です」

視聴率目当てのビジネスドラマならともかく、社長をはじめ役員が居並ぶ経営会議の場で、役職が上の常務に食ってかかる部長など、そうザラにはいないだろう。だが、これは現実にあった話である。

2000年代前半の出来事だったが、当時キリンの経営会議に出席を許されるのは、ラインの部長以上(現在は職能資格の主幹以上)。

キリンというよりも、食品業界のヒットメーカーであるカリスマ・前田の反論に、会議室は静まりかえり、緊張感がさざ波のように押し寄せたそうだ。

社内の序列や社歴など、どこ吹く風。一言居士の前田は、この日も自分の考えを素直に吐いた。そして、部下を守った。

もっとも、前田の意見がすべて正しいとは限らない。対立する意見が出てこそ、健全で健康的な会社組織といえよう。キリンは、オーナーのワンマン企業ではないのだから。

ライバル社に比べて、新商品のヒットは出るのに、全体のシェアが上がらないことから、常務は既存商品のブランドマネジメントが弱いと、指摘したかったのだろう。

一方、前田がズバリと言わなければ常務の発言により、マーケ部への風当たりは強くなっていく。新商品開発や既存商品のブランド管理を行うマーケターは花形職種。マーケ部を希望する社員は多く、その分マーケ部およびマーケターへの社内の風当たりはどうしても強くなる。

前田は部下を守るリーダーだった。経営会議の席上でも、実名を出して、その実力のほどを明言できる上司だったのだ。部下の実力を判断できなければ、言い切れない。

2009年、キリンビバレッジ在籍時の前田仁氏。
写真提供=キリンホールディングス
2009年、キリンビバレッジ在籍時の前田仁氏。