自社でしか通用しない会社人間になるな

一方で前田は部下に対して、社外でも通用する人材になれ、と指導していた。

マーケ部長時代に前田は、部下の山田精二に問うた。

「自分について書かれた新聞や雑誌の記事を、スクラップしているか?」、と。

「していませんよ。なんか恥ずかしいし……」
「アホやなぁ、お前。転職をするときに、履歴書にキリンで何をやったかを細かく書くよりも、記事のスクラップブックを見せた方が説得力は断然強い」
「僕を転職させるつもりなのですか、前田さん……」
「そうやない。キリンという会社の中だけではなく、世の中で通用するプレーヤーにお前がなることが大切、ということなんや。値段がつく、つまり価値が認められるプレーヤーにならなければ、本当は意味がない」
「しかし前田さん、みんな値段がついたら、キリンに人がいなくなっちゃいますよ」
「いいや、外から誘いがくるような優秀なプレーヤーを引き留めるため、キリンも魅力的な会社にしようと努力し工夫する。こうした緊張関係が、個人も会社も強くするんや。だから、外でも通用する人材は、多い方がいい。会社の中だけで通用する人材には価値はないし、そんな人間しかいない会社に明日はない」

自社でしか通用しない会社人間になるのではなく、自立した強い個となることを、前田は山田たち部下に求めた。

他部署の人間にネクタイをプレゼント

キリンホールディングスの執行役員を務めるHは、もう10年以上も前だが、新商品発表の広報を担当していた。会見の準備やその仕切り、ニュースリリースの文案作成などを、マーケ部長だった前田は高く評価。後日、前田はHにネクタイをプレゼントする。

いま、Hは言う。

「イルカの図柄が入った、前田さんらしいユニークな逸品でした。もったいなくて、一度も使ってません。家宝なんです。それでも、つらいことがあるとタンスをそっと開き、そのイルカのネクタイに触れる。“あの前田さんに、自分は認められたんだ”と、気持ちを立て直すのです」

前田のネクタイプレゼントは、社内の広範囲に行われていた。前田家の長女・亜紀が振り返る。

「休みの日に、父と母は連れ立って隣町のセレクトショップに行って、ネクタイを買っていました。いつも母が選んでました」

男性が他者のネクタイを選ぶのは難しい。なので、妻の泰子が見立てていたようだ。また、ネクタイ代は前田の財布で賄われていたのは、言うまでもない。

自費であっても、前田はいつも“生きた金”として使っていた。