NHKの番組を観ていて覚える圧迫感の正体
つまりは必然性ということか。ドラマに求められているのは物事の必然性であり、生い立ちから描くことで必然の連鎖として人生を理解できるのだ。確かにNHKは必然性を重んじる。
公共放送は必然的に生まれたかのように説明されていたし、報道やドラマ、情報番組もそれぞれ時節に必然的な企画として構成される。道徳放送とは必然的な放送。人生を偶然の連続と考えている私などからすると、必然の鎖に縛られるようで、だから圧迫感を覚えるのだろうか。
「でも実際、NHKのドラマに出ている俳優さんたちは熱演してるじゃないですか。みなさん気合いが入っていると思いますよ。そう思いません?」
首を傾げる私に藤堂さんが言う。
——そ、そうですね……。
「NHKはみんな観ているからです。他局のドラマと違ってNHKのドラマはみんな観てる。みんな観てるから気合いが入って、みんな熱演になるんです」
みんなのみんなによるみんなのためのNHK
藤堂さんは力説した。みんな観てるNHK。みんな観てるからみんな熱演と「みんな」の連打になっているが、この「みんな」は必然性を表わしているのではないだろうか。「みんな観てる」は、人々が観るから自分も観る。観られているから観るわけで、観るから観られていることになる。主客を超え、意志をも超えて「観てる」のだ。
実際私たちは、やっている人が2、3人でも「みんなやってる」と言うし、たった1人が持っているだけでも「みんな持ってる」などと言う。周囲に言及しているフリをして必然性を獲得するのである。藤堂さんが言う「みんな観てるからみんな熱演」というのも必然性の連鎖であり、みんな熱演だからみんな観ることになる。「みなさまのNHK」はみんな観てるNHK。この「みんな」が何に裏付けられているかというと、放送法に次のように規定されている。
豊かで、かつ、良い放送番組の放送を行うことによって公衆の要望を満たすとともに文化水準の向上に寄与するように、最大の努力を払うこと。(放送法第81条一)
NHKは「公衆の要望」を満たす。公衆から徴収した受信料で公衆の要望に応える番組を公衆に提供している。みんなのみんなによるみんなのためのNHKというわけで、これは民主主義の原理に通じている。NHKの使命の中にも「健全な民主主義の発達」と記されているくらいで、実は民主主義こそNHK道徳の根幹だったのだ。