新しい校舎、選ばれた「ご学友」

昭和天皇は明治34年(1901年)にお生まれになり、同41年(1908年)に学習院初等科に入学された。当時の院長は陸軍大将・乃木のぎ希典まれすけ。これは、昭和天皇(その頃の立場は皇孫=天皇の孫)のご入学をにらんで、明治天皇がその人格を高く評価しておられた乃木を院長に指名されたことによる。乃木の名前は、現在も東京の「乃木坂」という地名として残っているし、同地には乃木大将を祀る乃木神社が鎮座している。

学習院は昭和天皇のご入学に際して、校舎を1棟、新設している。また、クラスは選ばれた12名が「ご学友」となり、途中で転校した1名を除き、卒業まで同じメンバーだった。彼らは午前8時前に学校に行き、校門に並んで昭和天皇を出迎えた。

乃木院長は、週に1回、ご学友たちの手の爪が伸びすぎていないか点検して、昭和天皇にけがをさせないように気を配ったという。

毎年、年の暮れから3学期いっぱいは寒さを避けて、沼津や熱海の御用邸ですごし、ここで勉強された。父親の大正天皇(当時は皇太子)が大病を患って、ご病弱だったことが影響したという。

それにしても、徹底して特別扱いだったことが分かる。

皇太子だけのための学校

大正3年(1914年)に学習院初等科を卒業されると、中等科には進学されなかった。昭和天皇(当時の立場は、明治から大正に時代が移っていたので、皇太子)だけのために特別に設置された学校にお入りになったからだ。その学校の名前は「東宮とうぐう御学問所おがくもんじょ」。“東宮”とは皇太子のことを指す。

立案者は乃木で、総裁に就任したのは元帥げんすい(陸軍・海軍の大将の中からさらに選ばれた軍人として最高の地位)だった東郷平八郎。日露戦争の日本海海戦で劇的な勝利をもたらした連合艦隊司令長官として有名な人物だ。東郷も死後、東京・原宿に鎮座する東郷神社に祀られることになった。

御学問所では教科ごとに一流の教授陣を揃えた。「歴史」の担当は白鳥しらとり庫吉くらきち(東京帝国大学教授)、「地理」は山崎直方(同)、「数学」は吉江琢児(同)、「国語・漢文」は飯島忠夫(学習院教授)、「法制経済」は清水しみずとおる(行政裁判所評定官)等々といったメンバーだ。教科書も独自に編集したものを使用した。大正10年(1921年)に卒業されるまでの正科16科目を、教授23人で担当した。

たったお1人のために何とも贅沢な教育機関というほかない。

さらに、ご学友として5人の生徒が選ばれた。彼らは宮内省の臨時職員(出仕)とされ、形式上は学習院中等科・高等科に籍をおいた。しかも御学問所に附属した寄宿舎で共同生活をすることになった。土曜日の午後は自由に遊び、日曜日は夕方までそれぞれの家に帰ることが認められた。家に泊まることができるのは、夏休みなど長い休みの初めと終わりだけたったという(永積寅彦氏『昭和天皇と私』)。