「華族」のための学校だった学習院
先頃、秋篠宮家のご長男、悠仁親王殿下が筑波大学附属高校に進学されることが決まった。これまでは一般に、皇族は学習院で学ばれるのが慣例と見られていたので、悠仁殿下のご経歴はいささか異色な印象を与える。そのために、今回のご進学も含めて、いろいろと注目を集める場面があった。
しかし、少しロングスパンで皇族の養育や教育をめぐる環境を俯瞰的に眺めてみると、さまざまな変化やバリエーションがあったことが分かる。
そもそも、学習院は「華族」のための学校だった。華族とは、明治日本が新しく創出した貴族制度だ。古代以来の公家の子孫、江戸時代の大名家の関係者、薩摩・長州・土佐藩などの出身でとくに手柄があった者などに、爵位が与えられた。
その華族の団体である華族会館が、イギリスの貴族学校を手本として学校を作ることを構想。プランが実って明治10年(1877年)に私立学校として開設されたのが「学習院」だった。
やがて明治17年(1884年)には、宮内省所管の官立学校に衣替えをした。
制服、ランドセル…学習院から広がる
面白いのは、学習院で海軍士官型の制服が採用され(明治12年〔1879年〕)、さらに生徒たちにランドセルを背負わせるようになると(同18年〔1885年〕)、制服とランドセルの使用が全国各地に広がったらしいことだ(高橋紘氏)。おそらく、同院が憧れの目で見られていたからだろう。
戦後、昭和22年(1947年)に再び私立学校となり、現在に至っている。その際、日本国憲法によって、第1章の優先的な適用を受けられる皇室の方々(天皇・皇族)と第3章の全面的な適用を受ける国民以外に、中間的な「貴族」身分を設けることが禁止された(第14条第2項)。その結果、“華族の学校”だった学習院は当然ながら、根本的な変更を余儀なくされた。新しく制定された学則には以下のようにあった。
「本院は総ての社会的地位、身分に拘らず、広く男女学生を教育することを本旨」とする、と。
学習院は戦後、全く新しい形で再スタートしている。
こうした経過の中で、たとえば現在の天皇陛下の祖父にあたられる昭和天皇の場合は、どのような教育環境にあられたのか。