「書き残す」ではなく「書き捨てる」
「どうすれば書けるようになるのか?」という問いへの答え。
それは「『書き捨て』をしよう」である。「書き捨て」とは、僕が苦難に満ちたサラリーマン生活を経て、やっと辿たどり着いた、オリジナルのメソッド。
文字通り、紙にシャーペンやボールペンで思うがままに書いて、あとに残さないで捨てるという手法を指す。もちろんあなただって、今までに何度も「書き捨て」を経験しているはずだ。何枚もの紙にアイディアを書き、丸めては捨て、破っては捨て……。
むしろ「『書き捨て』なんて、したことがない」という人のほうが珍しいかもしれない。ただし、この手法は、無意識に行っても効果は期待できない。明確な目的意識が伴ってこそ、人生をより良いものに変える数多くのメリットをもたらしてくれる。
僕はこれをずっと続けている。心に引っかかったものについて、書いては捨てる。残さないからこそ、自由に、自分の言葉で書くことができる。
いったい、どういうことか、お話ししてみよう。
「書いたものは、残す」というマイルールを自分に課した場合。それは少なからずプレッシャーとしてのしかかってくる。ブログなんて特にそうだ。もちろん、ボタンひとつでいつでも削除できる。とはいえ「残す(世間様に公開する)」と決めた時点で、いかに慣れている僕でも肩に力が入ってしまう。
ツイッターなんて、なおさらだ。ツイッターは文面の修正がきかない。たった140文字といえども、誤字脱字の心配、“炎上”などの反響を考えると、なかなか気軽につぶやきにくい。
書き捨てはひとりカラオケ
残すことがプレッシャーになってしまうくらいなら、あらかじめ、「書いたものは、捨てる」と決めてしまったらどうだろう。気持ちが軽くなり、いくらでもペンを動かせそうだ。
すると、心が自由にのびやかになり、それまでは感知できなかったことにまで、気付けるようになる。フィールドが広がる。それは、とても大事なことだと思う。
たとえば「筆がすべる」なんて言葉がある。「調子に乗ったあまり、余計なこと(間違ったこと)を書いてしまう」というネガティブな文脈で使われる言葉だけれども、それでいいんじゃないか。だって、自分のなかから自由自在に言葉が沸き上がってくる状態になるだけでも、素晴らしいことなのだから。書くことくらい、自由に、調子に乗ってしまおうじゃないか。
メモやノートや予定帳のように「書き残すもの」には、あとで読み返して勉強の参考にする、記憶を補塡するといった、何らかの意図と目的がある。読み返すためには、ある程度体裁を整える必要もある。
それに対して「書き捨て」は、残さないことを前提にしているので、目的や意図や必要性に縛られない。体裁を整える必要もなく、気楽に自由に書ける。むしろ、ぐちゃぐちゃでもいいくらいだ。
たとえば、同僚の前で、ふと心に浮かんだくだらないアイディア(しかも言語化されていない)をホワイトボードにそのまま書けるだろうか。難しい。「錯乱したのか」と白い目で見られてしまう危険性もある。
オーディエンスがいると自由に心のままに書けないのだ。だが、誰にも見せない、将来見返すこともない、書き捨てなら、どんなことでも書ける。自分以外には理解不能な言葉や図で書いてもいい。
書き捨てはひとりカラオケだ。観客のいない、ひとりカラオケなら、音程を外そうが歌詞がめちゃくちゃだろうが自由になれる。アレンジだって自由自在。書き捨ては、ひとりカラオケと同じように、ルールや常識から逸脱して自由になれるのである。