視点の背景にある実父・良一氏の世界観

確かに、国軍関係者をはじめとする、多数派のビルマ人の信頼を得ることだけが笹川会長の目標なら、これでいいだろう。だが、ひとたびミャンマーに危機が訪れて、ミャンマー情勢を国際社会の規範的原則の観点から語らなければならなくなったときには、この視点のままでは、大きな困難を招き寄せてしまうだろう。

ミャンマーの村で水牛を連れた女性
写真=iStock.com/Leandro Zubrezki
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笹川会長は幼少期に東京大空襲に見舞われ、母と一緒に逃げまどいながら、九死に一生を得る体験をしている。多数の市民が哀れな姿で死んでいく中を生き残った笹川会長が、広島・長崎をはじめとしてアメリカが各地で犯した残虐な攻撃を繰り返し参照しようとするのは、むしろ当然だろう。

笹川会長が尊敬する実父の笹川良一氏は、A級戦犯として巣鴨プリズンに収容されていた際、トルーマン大統領に宛てて手紙を書いている(*9)。良一氏は、東京裁判で陳述する機会を心待ちにしていたとされるが(実際にはその機会を与えられないまま不起訴となった)、それは連合軍の戦争犯罪を糾弾し、勝者が敗者を裁く裁判所を糾弾し、日米開戦の原因をつくったのは米英の方だと演説したかったからであった(*10)

受け継がれた「差別への怒り」

笹川陽平氏を数十年にわたる社会活動へと駆り立てたのは、良一氏から受け継いだ「差別への怒り」だという。父・良一氏は、裕福な家庭の生まれであった点ではむしろ恵まれていたのだが、政治的な思想においては特異な屈折を抱えていた。

強い正義感から学校教員の権威にもしばしば挑戦したりしたため、「このままでは良一は社会主義者になる」と学校や両親に警戒されて、成績優秀であったにもかかわらず中学進学を許されずに寺での修行に出された。

同級生だった川端康成はその後に東大まで進学した。小卒で終わった良一のほうは、紆余うよ曲折を経て、成人してからはむしろ右翼的な国粋主義運動に没頭した(*11)。良一氏が受けた「差別」は、強い劇的な逆転志向を生み出すものであった。