「耐え抜いて、最後には勝つ」
婚外子として16歳になるまで父と会うこともない不遇の少年時代を送った笹川陽平会長の場合、父とは全く異なる家庭環境を持った。しかし父を継承して、日本財団を切り盛りするようになった陽平会長が、父から受け継いだものの中核には、「差別への怒り」があった(*12)。
「戦後最大の被差別者は笹川良一です」と言い、左派系メディアの不当な誹謗中傷に繰り返し憤る笹川陽平会長が、父のつくった日本財団を通じて「差別への怒り」を社会活動で表現する。その際、笹川会長が、政治的な思想の傾向としては反欧米的で戦前の日本に同情的な世界観を持って活動するとしても、それは自然なことではあるだろう。「耐えて、耐えて、耐えて、そしてまた耐えて、時間がいくらかかろうと耐え抜いて、最後には勝つ」と述べる笹川陽平会長にとって、「差別への怒り」に駆られた人道支援活動と、反欧米的な性格をぬぐえない政治的思想は、全く自然に結びついている(*13)。
裏切られた6年前の「楽観論」
笹川陽平会長の世界観は、今年の国軍のクーデター以降のビルマ人同士の騒乱のような場合には、どうなるのだろうか。さすがに欧米の植民地主義の影響でクーデターが起こり、弾圧がなされているわけではないだろう。笹川会長は、どのようにして一貫性ある情勢理解をするのだろうか。
実は笹川会長は、民主化後最初の国政選挙となった2015年選挙の直後に、次のような楽観論を述べていた。「総選挙と前後して、一部メディアは政権による不正選挙や、大敗に反発した国軍が動く可能性を指摘した。この国ではこのような事態がもはや、起こり得ないところまで民主化が進んでいる。」(*14)
笹川会長のビルマ人の一体性に期待した情勢理解は、見事に2021年に裏切られた。これまで多大な努力で「和解」を求める調停活動を続けてきた笹川会長としても、ショックは大きかったことだろう。クーデター直後、笹川会長は、「アメリカをはじめ、各国が早急な経済制裁を実施しないことを願うばかりである。……アメリカがミャンマーの経済制裁に走れば、同盟国の日本は苦しい立場に追い込まれる。ここは何としてもアメリカを説得する日本の外交努力が喫緊の課題となってきた。」と書いた(*15)。だが、その後、沈黙し続けた。