標的制裁を科す欧米は問題解決を目指していないか

だが翻って考えてみると、標的制裁を科している欧米諸国は問題解決を目指しておらず、「沈黙」している笹川会長だけが問題解決を模索している、という理解があるのだとしたら、それはあまりに一面的だろう。欧米諸国が「沈黙」するために、国軍幹部や国軍系企業に狙いを定めた標的制裁を停止したら、ミン・アウン・フライン最高司令官は態度を和らげるのだろうか。そのような根拠のない空想を信じるわけにはいかない。

「指導者に寄り添う」という笹川会長の姿勢に、国軍に弾圧されている市民に同情的なミャンマー人たちは反発している。笹川会長は、華麗な経歴の中で、一流の「指導者」との付き合いが長かっただろうが、実は世界のほとんどの「指導者」は、そのような一流の人物たちではない。仮に民主化を始めて笹川会長とも親交の深かったテイン・セイン元大統領が優れた人物だったとしても、ミン・アウン・フライン最高司令官がそのような人物であるという保証はない。むしろ全く逆であるように見える。それでも笹川会長は、「指導者に寄り添う」ために「沈黙」する。

日本政府も「沈黙の外交」を続けている

笹川会長は、そして日本政府は、自らの役割を見いだそうと必死になりながら「沈黙」している。それは不真面目な態度ではないとしても、いずれにせよ結果は出ていない。制裁をしている欧米諸国を「上から目線」で批判できるほどの立場ではない。

もちろん笹川会長が日本外交に第一義的な責任を負う必要はない。しかし、その責任の一端は担ってしまっている。人道支援と政治調停の間で、反欧米主義的な性格のあるアジア主義の姿勢をとりながら、ミャンマーに対して「沈黙」を続ける日本外交は、仮に笹川会長が全責任を負うものではないとしても、かなりの程度笹川会長によって象徴されている。

果たして本当にミャンマー国軍は、「差別への怒り」をぶつけるべきではない相手なのか。特に、笹川会長が選挙監視団長として不正はなかったと結論づけた選挙を覆してクーデターを起こし、自らの利権は手放そうとせず市民を殺害し、拘束し、拷問し続けているミン・アウン・フライン国軍最高司令官は、笹川会長が求める「差別との戦い」の観点から見ても、やはり「沈黙の外交」によって寄り添うべき「指導者」なのか?