横浜駅は「日本のサグラダ・ファミリア」と呼ばれるほど絶えず工事が行われてきた。だが駅の移設や地下自由通路の設置が完了し、2020年までに基本的な構造が完成した。ライターの渡瀬基樹さんは「これ以上の迷宮化が進むことは、当分の間なさそうだ。ただし、理不尽な上下移動を強いられるという他に類を見ない迷宮性は解消しそうにない」という——。

※本稿は、渡瀬基樹『迷宮駅を探索する』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

横浜駅の駅名標
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日本で最初に開業した横浜駅は移転を繰り返す

日本で最初に開業した鉄道駅は、1872年(明治5年)の仮開通時に誕生した、品川駅と横浜駅だ。だが、この初代横浜駅は現在の横浜駅とはまったく別の場所にあった。

1858年(安政5年)に締結された安政五カ国条約(日米修好通商条約など)によって、箱館・神奈川・新潟・兵庫・長崎は貿易を前提とした「開港五港」となった。

江戸幕府は開港にあたって、東海道の要衝である神奈川ではなく、入江の対岸にあたる横浜村に開港場を新設することにした。

当時の港の範囲は、現在のみなとみらい線馬車道駅付近から山下公園にかけての一帯で、大岡川と首都高速横羽線、中村川に囲まれたエリアが外国人居留地に指定され、「関内」と呼ばれて賑わっていた。初代横浜駅は大岡川を挟んだ対面に建設され、ここから関東一円や東北・甲信越から運ばれた生糸が、港へと運び込まれていった。

貨物輸送が最大の使命だった初代横浜駅は、延伸などまったく考慮されていなかったため、頭端式ホームで建設された。しかし大阪~神戸間の鉄道が開通し、さらに東西の鉄道を東海道でつなげる計画が進められると、この構造が問題となっていく。

横行する「横浜飛ばし」に市民が反発

1887年(明治20年)に横浜~国府津間が開通し、1889年(明治22年)には東海道本線が全通するが、横浜駅は通過できない構造のままだった。東京方面から大阪方面への直行列車を運行する場合、横浜駅で方向転換(スイッチバック)する必要があるが、それには牽引する蒸気機関車を逆方向に付け替えなければならない。手間と時間がかかるこの作業が、東西輸送の大きな障害となった。

1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると、軍の要請で横浜駅を通過する短絡直通線が作られ、軍用貨物列車はそちらを通行するようになる。戦争終結後も、長距離の優等列車は横浜駅に停車せず、所要時間を40分も短縮できる短絡線を直行するようになった。この「横浜飛ばし」で不便となった横浜市民は反発した。