※本稿は、渡瀬基樹『迷宮駅を探索する』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
大阪駅がある「梅田」はもともと「埋田」と呼ばれていた
迷宮駅の中で「西の横綱」と呼ぶにふさわしいのが大阪駅だ。大阪の二大繁華街の一つ「キタ」の中心である梅田地区に立地しており、接続する私鉄線や地下鉄線にも「梅田」の名が付けられている。
陸運より海運が中心だった江戸時代、市街地の中心部は船場や堂島で、日本で二番目となる大阪~神戸間の鉄道建設が計画されたときも、大阪駅は堂島に置かれる予定だった。
場所が約500m北東の梅田に変更されたのは、用地の問題だった。大阪市街地の北限よりも外側にあった梅田は、もともと「埋田」という名前だったように、湿地帯を埋め立てた場所だった。田んぼと墓地が広がっているだけの荒涼とした土地で、堂島よりも用地買収のハードルが低かった。
大阪駅構内に中途半端な階段が多いワケ
大阪駅は段差や階段・スロープが異様に多い。
特に中央コンコースや、南口から桜橋口へかけての自由通路には、3~7段程度の中途半端な階段が目立つ。これは高架化以降、悩まされ続けた地盤沈下の影響によるものだ。
軟弱な地盤と地下水の汲み上げによって、場所によっては最大で1m以上沈下したことで、ホームやコンコースだけでなく、路面にも大きな影響が出た。東海道本線の全線中、大阪駅構内の線路がもっとも急勾配になってしまい、レールに砂を撒かないと発車できない時期さえあった。
不等沈下を解消するため、アンダーピニング工法による大工事が、1962年(昭和37年)までの10年間にわたって施された。既設の基礎杭の間に人力で穴を掘ってコンクリート管を下ろし、約25m下の固い地盤に達したら管内にコンクリートをつめるというもので、日本で初めて採用された工法だった。さらに地下水の取水制限が行われたことで、ようやく地盤沈下は食い止められたが、段差はそのまま残ってしまった。