37歳で亡くなった雷蔵が本当に作りたかった作品
雷蔵は年に10本前後のプログラム・ピクチャーに出続けた。前半は単独の作品が大半だったが、後半は4つのシリーズに交互に出ていた。
そのなかでも、強く希望し、年に1本は文芸作品にも出ていた。
吉川英治原作の『新・平家物語』(溝口健二監督)、三島由紀夫の『金閣寺』を原作にした『炎上』(市川崑監督)、山崎豊子原作『ぼんち』(市川崑監督)、島崎藤村原作『破戒』(市川崑監督)、三島由紀夫原作『剣』(三隅研次監督)、有吉佐和子原作『華岡青洲の妻』(増村保造監督)などである。
雷蔵はこれらの作品を作るのと引き換えに、眠狂四郎や忍者を演じていたとも言える。
1967年、大映の勝新太郎は勝プロダクションを設立し、映画製作に乗り出した。
三船敏郎、石原裕次郎、中村錦之助もプロダクションを作っていた。
だが雷蔵は劇団を創立した。新しい演劇を作るためで、雷蔵は新作戯曲を依頼し、自分で配役も決めて出演交渉し、準備した。
しかし、6月に稽古が始まった直後に体調を崩して入院、演劇の公演は中止になった。
7月に退院した後、2作の映画に出たが、1969年2月にまた倒れ、1969年7月17日に37歳で亡くなった。
その2年後の1971年12月、大映は倒産した。
雷蔵の死、つまり雷蔵出演作がなくなったことは、瀕死の大映にとどめを刺したと言える。
スターの存在がいまとは比べ物にならないほど大きかった時代、市川雷蔵は、会社に命じられるまま、おびただしい数のプログラム・ピクチャーに出ながらも、自分を見失わなかった。
その意味では、稀有な俳優、稀有な大スターだった。