ダーティーヒーローが主人公の「眠狂四郎」に出演

市川雷蔵は生涯に159作(カメオ出演4作含む)の映画に出た。

眠狂四郎殺法帖ポスター
画像提供=KADOKAWA

そのうちの12作が柴田錬三郎原作の、ニヒルなヒーローを主人公にした「眠狂四郎」シリーズだ。

雷蔵の人気シリーズは他に「忍びの者」「若親分」「陸軍中野学校」があるが、いちばん早いのが『忍びの者』で1962年12月1日に封切られた。

その翌年1963年11月2日公開の『眠狂四郎殺法帖』から「眠狂四郎」シリーズが始まる。69年1月11日公開の『眠狂四郎悪女狩り』まで第12作まで作られるのだから、第1作の評判がよほど良かったのだろうと思うが、そうでもない。

この第1作は「眠狂四郎」の性格付けが曖昧なところがあり、ニヒリズムやダンディズムの要素が薄いとされ、大映社内では失敗だとみなされたのだ

後援会会報につづられた雷蔵の反省

雷蔵自身も後援会会報誌に〈残念ながらこの第一作は失敗だったといわないわけにはいまいりません〉と書いている。

〈試写を見て私は驚きました。狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていないのです。映画の中の狂四郎は何か妙に明るくて健康的でそれは狂四郎のイメージとまったく相反したものでした。これまでの私にたくまずして出ていた虚無感や孤独感といった一種のかげりが今や私の肉体的、精神的条件の中からほとんど姿を消していたのに私ははじめて気がついてハッとしました。〉

雷蔵は、自分が演じる狂四郎が虚無的ではなかった理由を、

〈私自身が家庭を持った一種の安らぎあるいは充実感といったものが無意識のうちに、にじみ出ている結果〉と分析する。

雷蔵は前年に結婚し、『眠狂四郎』の撮影が始まった頃に第一子が生まれ、幸福の絶頂にあったのだ。その、いまでいう幸福オーラが狂四郎にもにじみ出てしまったと、雷蔵は反省する。

〈もちろん演技者としては、これは弁解になりませんし、そんなことではいけません。この次こそは厳重な注意の目をくばりながら狂四郎の役作りを大きな課題としなければならぬと戒心しています。〉

勝新太郎が舌を巻いた雷蔵の孤独と虚無の演技

眠狂四郎はオランダ人の転びバテレンが、自分を転ばした大目付に復讐するために、その娘を犯したことで生まれた子という設定だ。

そうした暗い出生の秘密があるためか、女を犯し、人を切り捨てることもためらわない、ダーティーヒーローである。

一方、雷蔵も、出生の謎があり、生後すぐに生母と別れ、親戚の歌舞伎役者の養子となり、実の両親のことは知らされずに育ったという過去がある。

歌舞伎の世界に入っても、脇役の子だったのでいい役がつかない不遇な時期が長かった。その後、名優の養子となることで芽が出た。

こういう経歴からか、雷蔵は虚無感、孤独感のある役が合っていた。だが、それは生まれ育った環境によって自然と作られただけではなく、俳優としての「役作り」の努力の結果、生まれたものなのだ。

素顔の雷蔵については気さくで明るい人だったと共演者や撮影所の関係者は語っている。それがカメラの前に立つと、孤独で虚無的な男になる。決して地でやっているのではないと、雷蔵は言いたいのかもしれない。

同時期、同じ大映にいた勝新太郎は、雷蔵の孤独と虚無が演技であることを知っていた。そして勝新は、自分にはそこまで完璧に創ることはできないと自覚し、それとは別の方法で俳優として生きていく。

雷蔵は完璧に演じきるが、勝はスクリーンの中でその人物として生きる究極のリアリズムを志向するのだった。