アルコールの影響で、残忍さを増していく

ローマの歴史家クィントゥス・クルティウス・ルフスは著書『アレクサンドロス大王伝』で、すべての原因はペルシア文化にあるとし、

「ペルシア軍の武器には負けなかったが、その悪徳によって倒された」と述べている。

大王の凋落は、じつは前三三一年のバビロンの占領からはじまっていた。“アレックス”はそこで放蕩の味を覚えた。何週間にもわたって、快楽とワインと愛の都にとどまった。

クルティウスによれば、昼夜をわかたぬ宴会ざんまい、常軌を逸した飲酒・夜遊び、そして遊興と高級娼婦の群れに大王はおぼれた。捕虜となった人々に、「外国人から見ると野卑でショッキングな」ペルシア風の歌をうたわせた。

まさにバビロンはその悪名を裏切らなかったといえる。同じくクィントゥス・クルティウスによれば、対価を得られるならば、親や夫が娘や妻を占領軍に売春婦として差し出すこともあった。

卑劣だが計算高いバビロニア人は、宴席の終わりに妻が上半身や下半身をさらすことを許した。わが身を辱めたのは高級娼婦でなく、身分の高い女性や娘たちであり、公衆の面前で自分の体を辱めるのは礼儀にかなうこととされた。

将兵たちはアレクサンドロスを飲んだくれとみなし、陰謀や反乱が頻発するようになる。酒の影響や苦悩が重なり、大王は残忍さを増していく。

前三二四年には「寵臣」であり、幼なじみであり、将軍でもあったヘファイスティオンが死ぬ。プルタルコス『英雄伝』によれば、ヘファイスティオンが高熱を出したため、医師グラウコスが厳しい食事療法を指示した。ところがヘファイスティオンは去勢鷄のロースト一羽分と冷たいワイン一本という食事をとり、数日後に亡くなった。

悲嘆にくれるアレクサンドロスは、すべての音楽を禁止し、軍馬の毛を刈り、地元の町々の城壁を破壊し、コサイア人たちを虐殺。そして哀れなグラウコスを十字架刑に処した。

死の間際まで飲んでいたワインが遠因

ヘファイスティオンの死後、大王はバビロンに戻り、そこでみずからも死を迎える。大王の死をめぐる古文献の記述はさまざまである。

しかし事件が友人の一人、テッサリア人メディオスの家での大酒宴の後に起こったという点は一致している。また古代ギリシアの歴史家シケリアのディオドロスによると、大王は何杯も飲み干したあと、「強打されたかのような激痛に襲われた」という。

プルタルコスによると「一晩中、そして翌日も飲みつづけたあと発熱した」という。その一〇日後、おそらくは前三二三年の六月一三日、アレクサンドロスは亡くなった。大王の留守をあずかり、マケドニア本国の摂政をつとめていたアンティパテロスが、ワインに毒を盛ったとの説もある。

ワイングラスで乾杯
写真=iStock.com/Instants
※写真はイメージです

法医学者で古病理学者でもあるフィリップ・シャルリエは、乱れた生活や異国への遠征の結果、複数の寄生虫による「多寄生虫症」をわずらっていたと考える。

二〇一七年に発表された研究では(※3)、長年の不節制が急激に悪化したと分析している。「宴会が多く、大量のアルコールを摂取し、徹夜も多かった。(…)体には大きな負担がかかっていた。現在の基準でいえば、危険な食習慣や生活習慣をもっていたといえる。こうしたハビトゥス(個人の生活習慣)が、二週間にわたる発熱の遠因になっていたと思われる。(…)征服者の人生だから当然のことだ。もしわたしが病院のカンファレンスで、アレクサンドロスの症例を説明するとしたら、『若い男性、三二歳、長距離移動が多く、生活習慣が不規則、慢性的アルコール依存、多寄生虫症』と言うだろう」。

では昔から根強い、てんかん説は? フィリップ・シャルリエは、「完全なアルコール漬けというより、そう言ったほうが穏当で体裁がよいだけ」と切ってすてる。

また、バクトリア王女ロクサネやペルシア王女スタテイラ(ダリウス王の娘)など、この放蕩者が愛人にした女性たちをとおして性病にかかっていた可能性もある。あるいは最愛のヘファイスティオンをあげるまでもなく、男性の恋人からの感染もありうる。