私はただ運が良かっただけ
まつりさん、辛かったね。寂しかったね。殺伐としたオフィスの片隅で、押しつぶされそうになりながら頑張っていたんだね。
彼女は私と同じような景色を見て、私と同じような痛みを感じていた。しかも、私がこれまで自覚しないようにしてきた感情の一つ一つを言語化していた。その存在に気づいたときには、彼女はもうこの世にはいなかったけれど。
広告業界の女性たちは、多かれ少なかれ、きっとまつりさんと同じような経験をしているはずです。ちょっとでも条件が違ったら、私だってまつりさんと同じ行動をとっていたかもしれません。ただ、私は運よく自分が好きな仕事ができていたから、長時間の残業や理不尽にも耐えることができました。そして私には運よく自分のことを気にかけてくれる密な人間関係がありました。でもどんな部署に配属されるかなんて、努力ではどうにもならない。もはや運でしかない。それは会社の中で何の権力も持たない新入社員がどうにかできる問題ではないと思うのです。
もしも私がまつりさんと同じ部署にいる先輩だったら、悩みを聞いてあげられたのに。いや、でも無理だったに違いない。きっとその場にいたら、忙しくて殺伐とした空気に飲み込まれてしまって、誰かを気遣うとかそんな余裕もなかったかもしれません。かわいい新入社員に女の子ポジションを脅かされるのではないかと、ライバル心を燃やしていた可能性もあります。
残業時間に注目するのは「ピントがずれている」
ニュースでは残業時間月100時間という労働環境の悪さばかりが注目されたけど、私はどこかピントがずれているような気がしました。実際、広告業界では月100時間残業している人なんてざらにいました。まつりさんを苦しめたのは長時間労働に加えて、女性だからこその終わりのない苦しみだったんじゃないか? そんな思いが頭を離れませんでした。
女性として日常的に上司にバカにされ、男性より圧倒的に下の存在であることを自覚しながら、そこに長時間労働が組み合わさったときに、人はどれだけ自尊心を削られるだろう。男性社員なら長時間労働の先にも輝かしい栄光が見えるのではないか。六本木のクラブや銀座コリドー街に行けば、きれいな女の子たちにチヤホヤしてもらえるだろうし、美人の奥さんと結婚できて家事も育児もしてもらえるだろう。でも私たち女性社員は、はたして彼らと同じように働いたところで報われるのだろうか? 子孫も残せないのに生理痛に耐えて残業する日々を何十年も繰り返すのだろうか。
まつりさんの一件から広告業界の労働環境は大きく改善され、どの会社でも夜10時以降の残業はオフィシャルではNGになりました。あれだけ変わらないと思っていた「残業してなんぼ」という慣習も建前としてはなくなったのです。それは奇跡のようなことに思えました。資料をスピーディに作成したり、会議を効率的に進める方法が導入されたり、クライアント対応を調整したりする部署もありました。完全ではないにしろ、やればできたんだと思いました。