肺炎だった父は無事退院したが飲み薬の副作用が…64歳で急死

そして2016年9月末、父親は退院し、実家へ戻って来た。ところが父親は、四六時中倦怠感を訴え、起き上がるとフラつき、ほとんど寝たきり状態となってしまう。

実家へ戻ってきて2日後、あまりに父親の様子がおかしいため、病院へ連れて行くと、飲み薬の副作用で肝機能が悪化しており、そのまま入院することに。

そして10月半ば、肝炎を起こした父親は、肝不全のため急死した。64歳だった。

松野さんは、葬儀の手配、親戚や父親の友人への連絡、今後の母親の介護のことなど、やらなくてはならないことや考えなくてはならないことが多すぎて、悲しんでいる暇がなかった。

「葬儀中、母が友人たちの前で泣き崩れている姿を何度も目にしましたが、私には母をいたわる余裕も、自分自身が涙を流す余裕もありませんでした。正直、私は一人で両親を介護するのは難しいと思っていました。父の再入院後、父も私も父の死が近いことが分かっていたため、今後の母の介護やお金のことなどを父に相談することができたのは、良かったと思います」

松野さんは再入院した父親の面会の帰り道、ふいに前が見えなくなり、車を端に停めた。

暗いトンネルでうつむく女性
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愛する父はもうじき死ぬ。母も、もう昔の母ではなくなった。仕事や育児は待ったなし。精神科に通いながら働く夫にはSOSを出せない……。孤立無援の私は、この後、どう生きていけばいいのか。不安が全身を覆いつくし、自然と目から溢れ出るものがあった。

若年性アルツハイマーの母親はスマホを使えなくなった

父親が亡くなり、母親を一人にしておけないと考えた松野さんは、母親を自分の家に呼び寄せ、同居することにした。

ちょうどこの頃から夫は他県へ単身赴任が決まり、社会人になった長男は家を出ていた。長女は看護学校を辞めてから美容系の仕事に就き、忙しくしていたし、次男は学校と陸上部の活動でほとんど家にいなかった。それでも子どもたちは、家にいるときに祖母が危ないことをしそうなときは「ばあちゃん、危ないよ」と声をかけたり、サポートが必要なときは手を貸したりしてくれた。

母親を病院に連れて行くと、「若年性アルツハイマー」との診断がついた。介護認定調査の結果は、要介護1。松野さんはすぐにデイサービスの利用を申し込んだ。

母親は、この頃はまだ自分のことは自分ででき、簡単な家事なら手伝うこともできたが、短期記憶が弱くなってきており、すぐにモノを失くし、何度教えてもテレビのリモコンや携帯電話の使い方が分からなくなる。また、雑巾がけをしても掃除機をかけても、同じところばかり繰り返しかけていた。

「床屋をしていた両親は、人に好かれる朗らかな性格でした。特に母は、よく動き、よく気がつく、笑顔の多い癒やし系。私には3歳下に妹がいますが、私も妹も母のことが大好きでした」

起床は5時、子どもたちの弁当を作った後、出勤するが…

松野さんは平日、朝5時ごろに起きて子どもたちと自分の弁当を作り、電車通学をしている高校生の次男を起こし、車で駅まで送っていく。

次に母親を起こして、自分も食事をしながら母親の食事介助をし、終わったら着替えさせる。長女を7時ごろ起こしたあと、8時ごろ母親をデイサービスに送り、仕事に出る。

認知症の症状が進んできた母親は、出発ギリギリに大便や失禁をしてしまい、その処理に時間をとられ、仕事に遅刻してしまうこともあった。