多国籍企業がおかす「2つの過ち」

かつて、現場とマスコミ、あるいは現場と本社の間に、ものづくり観のズレがあり、それが過剰な悲観論を生んだ、というのがここまでの論点であるが、それは、実際の経営に悪影響を与えただろうか。残念ながら然り、と筆者は考える。一例として、海外への生産拠点のシフト、つまり「空洞化」を考えてみよう。

過剰反応的な製造業悲観論が日本を覆っていた1990年代後半から2000年過ぎにかけて、かなり多くの企業経営者が、この風潮に煽られた揚げ句、外に出さなくてもよかった現場まで、中国など海外に移転してしまったのではないかと筆者は疑う。傍証も少なからずある。ある時期、日本の現場にとって中国よりも怖い脅威は、「移す過ち」をおかす自社の経営者だったのかもしれない。

実際、工場の国内回帰が最近は話題になっているが、これを「日本の現場力が回復したので日本に戻った」と理由付けるのは、上記のように無理がある。むしろ、「2000年前後に間違った経営判断で海外に出してしまった現場を、過去の誤りを正す形で国内回帰させている」というのが、多くの場合の真相ではないか。むろん、そうして国内回帰をした会社は修正の早い会社であるからまだいい。実はまだ、そうした修正をちゃんとやっていない会社が日本には多いと筆者は踏むが、いかがだろうか。

もとより多国籍企業の経営者は、日本に残すべき現場を残し、海外に移転すべき現場を移転するのがひとつの仕事であるが、その場合、(1)日本に残せない現場を残してしまった、という「第1の過ち」と、(2)日本に残せたはずの現場を海外に出してしまった、という「第2の過ち」、つまり2種類の過誤をおかす可能性がある。このうち、第1の「残す過ち」は、いずれ市場の審判が下って国内工場が行き詰まるので、残す判断をした経営者は「優柔不断であった」と批判されよう。

ところが、第2の「移す過ち」は、移した先の海外拠点がそれなりに成立している限り、なかなか顕在化しない。要するに、間違いの証拠が残らないのである。したがって、「移す判断をした経営者は間違っていた」という評価を下すことは、難しいし勇気がいる。まして、それを決定したのが先代の経営者であればなおさらだ。かくして、「第2の過ち」はうやむやになりやすい。「あれしかなかったのだ」で済まされやすい。

その点、すでに国内工場回帰という形で修正を行った企業は、その率直さ、機敏さ、風通しのよさを、それなりに高く評価できる。そういう会社が1社でも増えてほしいと筆者は願う。まだ未修正と自覚される会社は、1度「各国の強み弱みを活かす」という国際経営の原点に立ち戻り、今の海外拠点の陣立てが長期的に見て本当に最適配置なのかどうかを、再点検してみてはいかがだろうか。

いずれにせよ、昨今のものづくり重視論、国内工場回帰論は、前向きな議論として歓迎されるべきだ。数年前、日本の製造業は総崩れになるとか、製造業はすべて中国が制するとかいった粗雑な議論が横行したのに比べれば大進歩と言えよう。むろん、現場は依然として問題山積であり、楽観論には程遠いが、根拠のない悲観論が何も生まなかったこともまた、歴史の示すとおりである。

しかしながら、あえて注文をつけるならば、マスコミが主導する最近のものづくり礼賛論は、全体に視野が狭すぎるように思える。一言で言うなら、生産現場の匠の世界、つまり高度な職人芸を持った現場技能者の話に偏りすぎているのである。