「製造業の名人芸」だけが「ものづくり」ではない

例えばテレビである。NHKにせよ民放にせよ、昨今は、報道系でもドキュメンタリー系でも、ものづくりをテーマにしたものが目立って増えた。その勢いはドラマにも及ぶ。先日、NHKを見ていたら、いわゆる外資系「はげたかファンド」に立ち向かう日本の工場、といった基本構図のドラマ・シリーズをやっていたが、そこで、いわば善玉を演じたのは、老舗メーカーのレンズ工場であり、何十年とレンズを磨き続ける老職人であった。ここでも、日本経済の象徴は「製造業の生産現場の匠」であった。

テレビ局は、そのビジネスの性格上、限られた時間の中で、確実に絵になる「いい画像」をとり、感動的な話を流そうとする。それは、テレビというメディアの特性からいって致し方ない。仮に私がテレビ業界の人間なら、やはりそういったものを追いかけただろう。要するに、一般視聴者にとってわかりやすく、共感を呼ぶ画像は、結局、旋盤を自在に操り工作機械以上の精度でモノを加工する人、指先で金型表面のミクロン単位の歪みを感知する人、朝の気温や湿度に応じて機械を微調整できる人、あるいは鋳物砂を握っただけで状態がわかる人、などであるわけだ。

たしかに、高度な技を持つ匠の世界は賞賛に値する。こういう人たちの所作はそれ自体が芸術的で、絵になる。話も感動的である。一視聴者の立場で言うなら、私はそうした映像が大好きだ。余談だが、筆者は子供のころ、日曜の午前中(当時は民放各局の良心的教養番組がこの時間帯に集中していた)にどこかの民放局でやっていた、伝統工芸の技を紹介する番組を毎週楽しみに見ていた。長年の職人芸ファンである。

しかし、一経営学者の立場に戻って言うなら、テレビが生産現場の名人芸の画像ばかりを流し続けることは、ものづくりを必要以上に狭く解釈する風潮につながり、問題である。筆者の考えでは、ものづくりとは、単に生産現場の技能の話だけではなく、製造業100兆円の全体、いやサービス業も含めた日本経済500兆円に結びつく、構えの大きい話なのである。我々が07年という現時点において対峙しなければいけないのは、そうした「開かれたものづくり」である。それは、製造業も超え、生産現場も超え、既成の産業分類や業界の壁も超えて、開発や購買や販売、さらにはサービス業全般にも応用可能な、きわめて広義の概念なのである(藤本ほか著『ものづくり経営学』参照)。

それが何を意味するかは次回に譲るが、先取りして言うなら、「開かれたものづくり論」は、モノそのものよりむしろ、「設計」を起点とする。それは「設計情報の流れ」という見えないものを重視する。見えないから絵になりにくく、だからマスコミもあまり取り上げないのだが、日本経済に大きな影響を与えるのは、実はこの「目に見えない流れ」なのである。この流れを見切り、統御するのが、「ものづくり」の要諦である。

我々は、「見えるが狭いものづくり」から、「見えぬが広いものづくり」へと視点を切り替えねばならない。それは、既成概念からの発想転換を意味する。この発想転換がないなら、わざわざ「生産」とか「製造」ではなく、「ものづくり」という長たらしい言葉を、ことさらに使う意味はないと筆者は考える。以下次回。

(尾黒ケンジ=図版作成)