「正しく恐れる」ことと「委縮」とは違う
こういう話をすると、すかさず「コロナ感染対策で移動の自粛が叫ばれているときに何を考えているんだ」「医療従事者の苦労を鑑みず、のんきに旅行なんて危機感がなさすぎる」「他人を感染させるかもしれないという意識が希薄だ」などという意見が出てきます。
しかし脊髄反射的に否定的な感情がよぎる人は、まず「移動そのものは悪ではない」ということに気づく必要があります。
移動がダメならすべての物流が止まり、スーパーに行っても商品がないということになります。政治家も国会に行けないし、公務員も出勤できなければコロナ対応すらできないでしょう。
移動だけで感染が拡大するわけではありません。ほとんどの場合、移動先での会食でしょう。ならば赤の他人から飛沫を受けるようなシチュエーションを避け、赤の他人がいる場所で自分が飛沫を出すシチュエーションを作らなければいいのです。
また、私も実感しましたが、今や宿泊施設や観光地周辺の飲食店でもコロナ対策は非常に徹底しています。彼らにとっても感染者が出ては死活問題。「やりすぎ」なほどやっていますから、それほど恐れる必要はないでしょう。
旅行するかどうかを行政に決めてもらうのか
そして昨今の富裕層の旅行は、「単身」か「家族」か「信頼できる仲間」とのものがほとんどです。
すると「いまは家庭内感染が多い」「信頼できる仲間といったって、その人たちの行動履歴まではわからないだろう」「どんなに注意しても感染したという人だっている」「結局会食するのなら感染防止にならないだろう」などという意見が出るのですが、そういう「ゼロリスク」を求める人には富裕層の行動原理からは学べることはないので、本コラムは読むだけ時間の無駄と言えそうです。
富裕層が事業や投資に対してリスクを取る姿勢は「挑戦・成長への欲求」と「自己責任意識」であり、ただ委縮し他人の言動を批判するだけの人には永遠に見ることのできない世界です。
それに、行政に決めてもらわなければ旅行するかどうかすら判断できないとしたら、それは成熟した大人の行為なのか、と思えてこないでしょうか。
必要な対策を徹底して生活と経済を回す
「ゼロリスク」を求めるなら、自然災害の多い日本から全員出ていかなければならない。それを私たちは防災対策や防災訓練などをしながら「折り合い」をつけて生きているわけです。
自動車事故で年間3000人以上が死亡し40万人以上もの重軽傷を負う人がいても、「車をなくせ」という話にはならないでしょう。
それはコロナも同じで、感染のメカニズムがわかっているのだから、必要な対策を徹底して生活と経済を回そうという冷静な対応が求められます。
「医療崩壊を阻止するために自粛しているんだ」「医療関係者が疲弊していることもわからないのか」という意見もわかりますが、仕事を失い収入が途絶えた人の絶望も相当に大変なものだという想像力を働かせたいものです。
経済苦や生活苦で自殺者数が増えているのを見ればわかるとおり、経済を回すことも命を守ることにつながる、どちらも「命」と「命」の問題なのですから。
「正しく恐れる」とはどういうことかを冷静に考え、恐怖で思考停止し委縮しないようにしたいものです。