苦労のなかにある「代えられない価値」

辛くても怖くても笑顔でなくてはいけない中では、怒鳴られたって殴られたって、「共感と受け入れと適切な対応ができなかった自分が悪い」と被害を内面化せざるを得ない。

木村映里『医療の外れで 看護師のわたしが考えたマイノリティと差別のこと』(晶文社)
木村映里『医療の外れで 看護師のわたしが考えたマイノリティと差別のこと』(晶文社)

患者さんが人間でいるために、看護師は人間以外の、サンドバッグに近い何かで在ることを求められていると感じる瞬間は、私自身毎日のようにあります。

決して対等な関係なんかになり得ない。患者さんは辛くて、看護師も辛い。私が今も医療現場にいるのは、一歩間違えれば双方がどうしようもなく傷付く危うい関係性の中で、それでも、誰かの生活を守ることが、その中で心が通じ合ったと思う一瞬が、私にとって何ものにも代えられない価値を持つからです。

多くの看護師が暴力を前にしても、「あなたのことは一切知りません」と看護を拒否することなく向き合い続けるのは、看護職としての法的な責任以上に、「暴力だけがこの人の本質ではない」とどこかで感じている、あるいは感じたいと願っているからではないでしょうか。

病院から暴力をなくすことは不可能

いつか、自分が修復不能なまでに削られてしまうのではないか、いつか疲労と苦しさから、目の前の患者さんを愛せなくなる日が来てしまうのではないか、と思うとたまらなく不安になります。

CVPPPをはじめ、暴力への技術的な対応を身に着ける必要があることは言うまでもなく、患者さんの安全と同時に私達の安全も守られなければいけませんが、暴力行為の背景の複雑さを踏まえると、患者さんからの暴力を完全になくすことは不可能だと私は考えています。

「一回でも怒鳴ったら診療拒否」という抑圧的な現場ではなく、かといって看護者が諾々と暴力に耐える日々でもない医療現場の在り方がどのようなものか、私の中で結論は出ていません。

院内暴力は誰もが当事者になり得る

ただ、ケアを提供する存在である我々もまたケアを必要としているのは、間違いない事実のように感じます。暴力を受ける現象自体が避けられなくとも、「あなたに悪いところはなかったの?」なんて周囲から絶対に言われないこと、「怖かったね」と気持ちを肯定されること、人としての感情を殺されないこと。

院内暴力は、全ての患者さんと看護師が当事者になり得るものです。私は看護師として、起きてしまった出来事を、「運が悪かった」「自分にも直すところがあった」「そういう仕事だから」という言葉に矮小化したり、自分の中に閉じ込めたりすることなく、私へのケアを求める気持ちに正直でいたいし、そうして、生身の存在として働き続けていきたいと考えています。

(注釈)
*1 日本こころの安全とケア学会監修、下里誠二編著『最新CVPPPトレーニングマニュアル:医療職による包括的暴力防止プログラムの理論と実践』中央法規出版、2019年
*2 「『2017年 看護職員実態調査』結果報告」日本看護協会、2018年
*3 和田由紀子・佐々木祐子「病院に勤務する看護職への暴力被害の実態とその心理的影響」新潟青陵学会誌,4(1),1-12,2011.
*4 友田尋子・三木明子・宇垣めぐみ・河本さおり「患者からの病院職員に対する暴力の実態調査:暴力の経験による職種間比較」甲南女子大学研究紀要、看護学・リハビリテーション学編,4,69-77,2010.
*5 Violence at work: Findings from the 2002/2003 British Crime Survey, Home Office,2004.
*6 日本集中治療医学会J-PADガイドライン作成委員会編『日本版・集中治療室における成人重症患者に対する痛み・不穏・せん妄管理のための臨床ガイドライン』総合医学社、2015年

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