「武勇伝」と『YouTube大学』の共通点
そう考えれば、学園祭で初めて経験したステージも、一心不乱に完成させた「武勇伝」も、自分のなかでやり切った感は充分にある。その時点でのベストを尽くして、考えに考え抜いた。すると、おのずと結果がついてきたのである。
思えばこのしくみは、近年ぼくが取り組む『YouTube大学』の授業でもまったく同じだ。自分のなかで気持ちが乗って、本や資料の読み込みがしっかりでき、コンディションよく「今日はおもしろいぞ」と思いながらカメラの前に立って授業をすると、自分にとっての「名作」ができる。そういう回は、視聴者数もぐんと伸びるものだ。
逆に、取り上げる内容の問題か自分のコンディションのせいか、それほど気分がすぐれないままに準備を進めて、もちろんそのなかでベストは尽くすのだけれど、「今日はこれぐらいで勘弁してください……」という日だって正直ある。そういうときは、動画としての出来も視聴者数も、それなりである。
当たり前といえば当たり前のことかもしれないが、伝えるひとの気概や心持ちは、つくるものに大きく反映されるようだ。
お笑いとは「波動」である
ぼくはそのあたりのしくみを称して、笑いには「波動」があり、「波動」をうまく伝えることが重要だと分析している。
お笑いをやっているとだれしも痛感するところだと思うが、同じネタでもウケるときとウケないときが、明らかにある。それがなにに由来するか。いろんな要因はあろうけれど、ひとつにはうまく波動が出ていない、または届けられていないということが多いようなのだ。
人間のセンサーというのは、科学的な数値では測れないほど高度で繊細だったりするものだ。第六感とでもいうのか、「ああこのひと、ちょっと怒ってるのかも」「心ここにあらずだな」などという微妙なことまで、瞬時に感じ取ってしまう。コンピューターによる顔認識がどれほど発達しても、顔色まですぐ嗅ぎ取ってしまうこの人間の能力は、なかなか真似ができないんじゃないだろうか。
お笑いを見ているひとも、そういう微妙な状態や気配を、演者から感じ取っているに違いない。それで素直に共感したり笑いたくなったりするときと、どうも興が乗らないときに分かれたりするのだと思える。それをぼくは波動という言葉で捉えているわけだ。ひとは相手の状態を感じ取るセンサーがあまりにも繊細で高機能なので、台本の言葉の意味に反応するというよりは、演者が発している感情や熱量にこそ敏感になってしまうところがある。よくない波動が伝わってしまえば、どれほどネタがよくてもウケることはない。
まるで武道の話をしているみたいだ。達人同士だと、対峙しただけで相手の強さがわかってしまい、組む前から勝敗は決してしまうと聞くが、お笑いにもそういう面はある。舞台に出てきた瞬間、まだなにもしゃべっていないのに、ああこのひとはきっとおもしろいと確信できることがあるではないか。逆に、理由もなく「このひと、今日は調子が悪いんだろうな、残念」と感じてしまうことだってある。
お笑いの才能があったとかスター性があったとか、ぼくらオリエンタルラジオがデビューを果たすことができたのは、そういう具体的なことではなかった気がする。ただ目の前のことに熱中して、人前に出すものに対して最善の努力を傾け、突き詰めてつくり上げ、舞台の上に立てばそれを自信を持って届けようとはしてきた。その必死さがいい波動を生み、見てくれるひとのもとへ伝わったということなのだろう。