新型コロナの危機対応では、ドイツのアンゲラ・メルケル首相のスピーチが高く評価された。社会学者の橋爪大三郎氏は「3月18日のテレビ演説では『私たち全員が力を合わせることが必要です』と呼びかけていた。一方、安倍首相は『皆さんの声は、私たちに届いています』と話した。この差は大きい」という——。

※本稿は橋爪大三郎『パワースピーチ入門』(角川新書)の一部を再編集したものです。

日本とドイツの国旗
写真=iStock.com/iZhenya
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3月18日、メルケル首相テレビ演説を紐解く

新型コロナウイルスが中国の湖北省武漢で感染が最初に拡大したのは2020年1月のことだった。その後、イタリアに続いてドイツでも、コロナウイルスの感染が厳しい状況になった。3月1日に100人を超えた感染者が、3月9日には1000人を超えた。州ごとに外出制限などの措置がとられた。

そのさなか、アンゲラ・メルケル首相は3月18日、テレビで異例の演説をした。直接、ドイツの人びとに、危機を訴えたのである。

以下、そのスピーチのなかみを紹介しよう。

まず、冒頭の呼びかけ。

《Liebe Mitbürgerinen, lieve Mitgürgeren, Fellow citizens(市民のみなさん)》

と語りかける。なんと呼びかけるのか。語りかける政治的リーダーと、それを聴く一般の人びと、の関係を設定する大事なポイントだ。

その昔、ヘルメット姿の日本の過激派の学生は、「通行中の労働者、学生、市民の皆さん!」と呼びかけた。それ以来、日本では、「市民の皆さん」と呼びかけると、私は左翼です、という表明していると取られることがある。

では、「国民の皆さん」と言えばどうか。

「国民」はよく使う日本語である。でも、英語にもドイツ語にも対応する概念がない。nationは集合名詞で、国民や国家を表す。一人ひとりを表す言葉ではない。nationalは国籍保有者という意味になって、法律のもとに置かれる存在だ。

「市民」は、国や政府や、法律がなくても市民。なにしろ、市民革命で国家を樹立するのが市民なのだから。その市民に呼びかける。主権者である皆さん、という意味である。首相から一般の人びとへ、という上から目線ではない。ひとりの市民・対・市民として呼びかけているのである。

Mitbürgerinenという単語の中のBürgerが、市民にあたる言葉。フランス語ならブルジョワで、丘に(都市に)住んでいる人びと、という意味である。ドイツ語の名詞は、男性/女性、単数/複数を分けるので、冒頭のように両方を複数形で並べる言い方になる。

Mit-がまた訳しにくいが、togetherの意味。英語のfellow(仲間)に近い。

Liebeは「親愛な」という常套句だが、「愛」がこもっている。きちんとスピーチをすると、その意味が伝わってくる。

この呼びかけを聴いたとたんに、お、首相がひとりの人間として、私たちに語りかけているのだな、という関係が感じられる。もちろんそれに続くスピーチの内容も、それにふさわしいものでなければならないけれども。

私たち(政府)は皆さんのことをひとごとだと思っていますという本音

日本語でこれに近いことを言おうとすると、それなりに苦労しなければならない。

4月7日、日本の安倍晋三首相が発出した緊急事態宣言のスピーチには次のようなくだりがある。

《日本経済を支える屋台骨は中小・小規模事業者の皆さんです。本当に苦しい中でも、今、歯を食いしばって頑張っておられる皆さんこそ、日本の底力です。皆さんの声は、私たちに届いています。皆さんの努力を決して無にしてはならない。その思いの下に、史上初めて事業者向けの給付金制度を創設しました。》

なんとなく力の入ったスピーチであることはわかる。でも「皆さんの声は、私たちに届いています」と、皆さん/私たち、と区別している。私たち(政府)は皆さんのことを、ひとごとだと思っています、という本音がにじみ出ている。