※本稿は橋爪大三郎『パワースピーチ入門』(角川新書)の一部を再編集したものです。
グローバル化が進む中でビジネスパーソンは、今後ますますスピーチをする局面が増えるだろう。だが、私が見たところ、下手なひとが多い。それは、政治家や外交官、ビジネスリーダーといったスピーチを求められる機会が多いひとも同様である。
なぜ、そもそも日本人はスピーチが下手なのか。スピーチ文化が育たない理由と訓練方法を解き明かしたい。
スピーチ文化が育たない理由その1
【仏教と神道は、信徒にスピーチをさせない】
西欧社会の人びとがよくスピーチをするのは、キリスト教の習慣である。ユダヤ教やイスラム教も、スピーチをしないわけではないので、一神教はスピーチに前向きだ、と言ってもいい。とにかく預言者というひとがいて、神の言葉を聞き、それを人びとにスピーチで伝える。それをさえぎろうものなら、えらいことになる。
イエスはたくさんスピーチをした。福音書に、その記録が残っている。イエスが復活して昇天したあとは、代わりに聖霊というものが降りてきて、何を話せばいいのか、人間に教えるという考え方が生まれた。だからキリスト教の教会では、説教をする。
カトリック教会では、聖職者が説教をした。ふつうの信徒は聴くだけ。プロテスタント教会は、聖職者を廃止したので、誰でも説教するようになった。そのやり方が、政治や一般社会に広まった。これがスピーチである。
仏教は、修行の進んだ僧侶が発言し、一般の信徒は黙っている。神道は、神主が祝詞をあげ、一般の信徒は黙っている。
スピーチ文化が育たない理由その2
【集団の和(コンセンサス)を優先する】
誰かが自由に話すのを止めるのは、別な人間。人間が人間を支配するのは政治である。よって、政治が強力な中国では、スピーチ文化は育たなかった。
同じ理由で日本でも、スピーチ文化が育たなかった。日本では、政治の代わりに、人びとが調和することが重視される。とがった個人が突出すると、いじめられる。
というわけで、スピーチする習慣がない。スピーチする準備がない。
グローバル世界では、これが問題になる。誰もが相手は、個人として考えをもち、価値観をもち、スピーチする準備があるだろうと思っている。一人ひとりが違う。それが、ビジネスの前提ではないか。周囲にとけ込んで調和することで生きてきた個人、を想像できない。
でも結局、人間は個人である。近代は、人間が個人であることを促進する社会である。日本人もちょっと努力し訓練すれば、ちゃんとスピーチができるはずだ。