坪内祐三の死は作家の鑑そのもの

クラブザボン
1978年開店。名付け親は小説家の丸谷才一。カウンターのみ3坪の店から始まり、2年で13坪の店へ。さらに3年で、現在の20坪に。店には文壇の大御所や編集者たちが集う。
銀座老舗文壇バー「ザボン」水口素子ママ
銀座老舗文壇バー「ザボン」水口素子ママ

私は、いくらお酒を飲んで早死にしようと、節制して長生きしようと、その人の人生がまっとうなものであれば、どちらでも幸せなのではと思うのです。

故郷の鹿児島から上京し、銀座デビューをしてから48年がたちました。最低でも1日に水割りを5杯、それに慣れてくるとジンやテキーラなど強いお酒を飲みだすので、30年も前から糖尿病と腎臓結石に悩まされています。しかし、甘いものを控えすぎれば低血糖でフラフラになってしまいますし、持病ですから付き合っていくしかありません。いつ病状が悪化して倒れるかもわかりませんが、私はこのクラブ「ザボン」は、なにがあっても体が動かなくなるまでは続けると決めています。

意識があるまで店にいられるのであれば、お酒で死んでも私にとっては何の悔いもないのです。

2020年1月13日、ザボンにも週に1度は通ってくださっていた文芸評論家の坪内祐三先生が61歳の若さでお亡くなりになりました。私と坪内先生は、先生がまだ「東京人」の編集者だったころからのお付き合いです。

2020年1月13日に亡くなった坪内祐三(61歳没)。
2020年1月13日に亡くなった坪内祐三(61歳没)。

銀座の街のエッセイも書かれていて、私も先生の本から勉強することばかりでした。とくに、内藤誠監督の映画にもなった『酒中日記』はいまでも私の愛読書です。しかし彼は飲みすぎでした。ザボンでボトル半分を空けてから、今度は新宿のゴールデン街へ流れる。お酒を飲むと怒りっぽくなる方だったので、新宿では出禁のバーが数軒。私も年中喧嘩していたお客様は先生くらいでした。でも2日もたてば先生は喧嘩のことなど忘れてケロッと店に来るので「ツボちゃん、ツボちゃん」って慕っていたんですが、でも怒られたほうは忘れないんですよね(笑)。本当、どこに怒りの地雷があるかわからない方でしたから。