国に対する当事者意識が渦巻いていた時代

薩英戦争後、薩摩は、極秘プロジェクトを実行するため、なんと戦争相手だった国の公使を呼びます。そこに同行したのが、アーネスト・サトウです。その接待役は西郷隆盛でした。

通称“薩摩スチューデント”たちが航海中に立ち寄った国々や、目的地・英国での見聞録もなかなか興味をそそります。

幕末の日本には、薩摩に限らず、あらゆる藩に「日本はこのままでいいのか」と危機感を募らせる人々がいました。それだけ緊張感があったのです。「このままで日本はどうなるのだ」「何とかせにゃいかん」という当事者意識が日本に渦巻いていたといえます。

驚くべきは、今の感覚で言えば、子供のような年齢の者もいたことです。薩摩スチューデントのメンバーは、最年少が13歳。最年長でも33歳でした。このような勇気ある若者たちが自主独立の精神を発揮し、日本を変えるために立ち上がったのです。

幕末の日本には、わが国のいいところは守り、しかし、外国のよいところは謙虚に学ぶ。それが日本の成長につながるという考えが息づいていました。

例えば、西郷は、西洋文明は本当の文明ではないという意味のことを言っています。本当の文明国なら、植民地で苛斂誅求を極めることはないというわけです。むしろ、現地の人々とうまく融和して、いい国をつくろうとするはずだと主張します。その一方で、『南洲翁遺訓』では、西洋の刑法は教育刑であり、犯罪者を立ち直らせるために牢屋でも本を読ませていると褒めています。

『遠い崖』にしても『薩摩スチューデント、西へ』にしても、当時の人々の気概や畏怖の念がにじみ出ていると思います。

たとえ戦争で戦った相手国であっても、学ぶべき点があると見抜き、国禁を犯してまで即座に留学生を送り込む行動は、グローバリズムの中でわが国がどう生きていくべきかという危機感と構想を持っていたからこそできることです。

最後に紹介するのは、ハインリッヒ・シュリーマン著・石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』です。シュリーマンは、ドイツの考古学者で伝説の都市トロイア遺跡を発掘したことでも知られています。このシュリーマンが幕末の日本を訪問した旅行記です。わずか3カ月という滞在期間ながら、考古学者ならではの探求心で、当時の日本の風物から政治、人々まで、つぶさに描いています。

外交官サトウの眼、考古学者シュリーマンの眼。その視点の違いで、幕末の日本は外国人の眼にどう映ったのか、読み比べてみるのも一興です。

(構成=斉藤栄一郎 撮影=大杉和広(人物)、小林久井(本))