アンカーがあるからこそ未知の航海に出られる
景気ははや底を打ったといわれるが、雇用情勢に明るい兆しは見られない。成果主義の浸透ともあいまって、特に40代以降の年収の伸びはなかなか期待できない。今の会社にいるべきか、希望退職に応じるべきか。そんな岐路に立たされたときこそ、理解してほしいのがキャリア・アンカーという概念だ。
これは、私の留学時代の恩師である、アメリカの組織心理学者、エドガー・シャインが提唱したもので、キャリアを個人の側から見た概念である。仕事や会社が変わっても、変わらずその人が貫きたいことをさす。
キャリア・アンカーは、ゼネラルマネジャーになることに意欲的な「全般管理能力」、特定の仕事に対して才能と高い意欲をもつ「専門能力」、規範に束縛されることを嫌い、自分のやり方で物事を進めることを好む「自律・独立」など、8つに分類される。10年以上の就業経験がある人なら、私が邦訳した診断ツール(『キャリア・アンカー』白桃書房)を使えば自分のアンカーが把握できる。
人生も仕事もしばしば航海にたとえられる。実際の航海においては、船は目的地まで一直線に行くわけではない。燃料や水を補給したり、風雨を避けたりするために、いくつか港に立ち寄る必要がある。その際に不可欠なのが錨(アンカー)だ。逆にいえば、しっかりと船体を支えてくれる錨があるからこそ、どんな遠くにでも、あるいは未知の航海にでも船は出かけることができるのである。
ユダヤ系ハンガリー人の父親とドイツ人の母親の間に生まれたシャインが研究者として飛躍するきっかけになったのが洗脳(強制的説得)というテーマに出合ったことだった。朝鮮戦争が終わり、アメリカと北朝鮮・中国との間で停戦協定が結ばれ捕虜の交換が行われた際、彼らの心理状態を探る専門チームの一員として現地に派遣され、長時間、彼らの体験に耳を傾けた。その結果をもとに、(共産主義による)洗脳のメカニズムを解明した論文を執筆し、大きな注目を浴びる。
その後、マサチューセッツ工科大学に移り、経営大学院の教授となるが、多くの会社が管理者育成の名のもと、社員に自社の価値観を刷り込んでいることに着目した。会社による社員の「洗脳」というわけである。
そこで組織の価値観が個人にどう影響するかを探ろうと、半年後、1年後、5年後、10年後と、同じ卒業生への追跡インタビューを行ったが、結果は満足のいくものではなかった。一貫した態度が見られなかったのである。会社に染まる人もいれば、染まらない人もいる。
シャインは考えた。人は会社の価値観に染まるばかりではない。これだけは譲れないという価値観が個人の側にもあるのではないか、と。ここからキャリア・アンカーという考え方が生まれたのである。