いつの時代もこぼれ落ちる人はいる

こうした社会になった原点をたどると、政治経済的には新自由主義経済の導入にたどりつきます。1980年代の中曽根康弘政権のときに当時の国鉄が民営化されましたが、色合いが鮮明になったのは小泉純一郎政権になって以降です。郵政民営化がおこなわれるなど、より新自由主義的な政策が進展しました。ただ民営化というのは新自由主義のほんの一面でしかありません。新自由主義を一言でいえば、金儲けは「自由」にできるということ、国家による規制が緩和された中で、個人や法人がいかようにも業績を上げることができるという政策です。

では、新自由主義によって人は幸せになったでしょうか。民営化で成功したものも多くあり、たしかに自由に利潤の追求ができるようにはなりました。ある人にとっては利潤も上がって、会社の評価も上がったでしょう。

しかし、人には運に見放されたように絶不調のときもあります。運悪く、からだを壊してしまった人もいるでしょう。自由な競争の中では、十分に成果をだせない人は一定数いるものなのです。新自由主義はそういう人たちに不寛容です。たとえば、ノルマ達成がならなかった人は、上司から「行って(辞めて)良し」「オレの視界から消えてくれ」と言われてしまう。

競争に負けた人のセーフティネットが宗教だった

そういう人に対して寛容な社会であれば、まだ精神的に何とか持ちこたえられるのですが、飲みながら愚痴をこぼせた日常は、古き良き時代の趣きさえあります。

お能をみると、妖怪になって夜な夜な旅人を襲うような化け物がでてきます。ところがその化け物たちはみんな不幸な境遇で傷ついた人間の変化なのです。そしてそのこころの内を旅の僧が聞いてやると、妖怪は天上に昇っていきます。誰でも突然不幸な境遇となることがあり、傷ついて妖怪となってしまう。そういうものがこころなのであって、常にピンピンしているものではありません。

時代が変わったとしても、人間のこころが強靭になるわけではありません。傷つきやすい、フラジャイルなものです。

高度経済成長の時代、経済神話、企業信仰があった時代、身分は企業という“御本尊”に守られていたので、会社に依存していればさほど問題はありませんでした。「安心」や「信頼」は、ある意味タダのようなもの、空気のようなものだと思い込んでいました。気がつかないうちに、競争からこぼれ落ちた人へのセーフティネットを、あの時代に捨て去ってしまったのです。

そのセーフティネットの一つが宗教なのです。