「もう一本の線」があれば人生を立て直せる
そのことを痛感したエピソードを紹介したいと思います。
大学院でぼくが教えた女性が、タイに住む大学講師の男性と結婚するというので、結婚式に出席したときのことです。新婦は、タイ仏教の研究者で、上座部仏教の研究をしていました。彼女自身が慈悲に溢れた仏教者で、ホスピスで傾聴ボランティアをしていたりと、たいへん心優しい女性でした。彼女はタイで大学の講師となり、そこで新郎と知り合ったわけですが、彼は幼少時から僧侶となり、還俗して大学の講師になった人で、彼もまた優しさに溢れた素晴らしい男性でした。
結婚式で、新郎の父親が印象深いスピーチをしました。
「こんなに徳の高い女性と結婚できたうちの息子は、ほんとうに幸せ者だ。彼女はタイまでやってきて仏教の研究をしていて、瞑想をしていたりする。何て徳の高いお嫁さんなんだろう」
ぼくは、「徳の高い女性と結婚できて幸せ」という言葉を生まれて初めて聞きました。
日本人ならば、さしずめ、
「こんな可愛らしいお嫁さんが来てくれて喜ばしい」
などと挨拶する程度です。
ぼくはそのとき、「タイの人は強いな」と心底思いました。タイも日本と同じ資本主義国です。収入が得られなくなって生活をしていけなくなれば、暴動も起きる。日本と同じように、人びとは経済人としての人生も生きていますが、タイの人は“もう一本の線”をもっているのです。その線とは、仏教の中で徳を積み、在家であれば来世によき輪廻を求めながら、人間的な成長を人生において求めていくという生き方です。いわば複線的な生き方ならば、たとえ不況になって失業したとしても、もう一本の線が残っている。もちろん宗教で食べていくということではありませんが、立て直しにつなげていけるこころ、支えられている感覚が生き残っているのです。それがあれば不況になろうが失業しようが、人生のレジリエンスにつなげていけるわけです。
こういう話はタイだからではないか、新婦が結ばれた男性の家は、とりわけ宗教との結びつきが強かったのではないか、と思うかも知れません。しかし、日本も時代を少しさかのぼれば、タイのような、複線の国だったのです。
日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきだ
以前、哲学者の山折哲雄さんと対談したとき、彼も昭和20年頃までは日本も複線構造、山折さん流にいえば、「和魂洋才」という「二重構造」をもっていたと力説されました。
和魂が生活の基盤を成していたにもかかわらず、日本はさっさと仏教文明であることをやめた。いつやめたかといえば、明治維新のとき(『次世代に伝えたい日本人のこころ』)。
そして完全に単線化したのは、やはり昭和20年以降だと言っていました。
ぼくも山折さんの意見とほぼ同じです。
日本は経済成長とともに、宗教を手放していったのです。
日本のなかにも先ほど触れたような、息子が日本人女性と結婚したタイ人の父親のような人はいました。宗教や精神性がもっと身近にあったし、こころの中心にもあったのです。しかしそれが失われたように一見見える現代においても、その複線社会を甦らせるのに遅すぎることはありません。
ぼくは、日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきときだと思います。