※本稿は、読売新聞社会部『孤絶 家族内事件』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
「一言、夫から気づかいの言葉があれば……」
「介護も食事も嫁がやるのが当たり前という感じで、何も感謝をしてもらえませんでした」
2016年10月21日、東京・小菅の東京拘置所の面会室。訪れた記者の前に、ピンクの部屋着で座った小柄な女性(68)は、事件の経緯を語り始めた。自らの裁判員裁判の判決が、3日後に東京地裁で予定されていた。
同年2月、都内の自宅で当時の夫(69)と無理心中しようと考え、寝室に火をつけた。現住建造物等放火と殺人未遂の罪に問われ、検察は懲役5年を求刑した。
「事件は本当に申し訳ない。でも一言、夫から気づかいの言葉があれば……」。女性を追い詰めたのは、長年の「ダブル介護」だった。
女性は、東海地方の貧しい農家で生まれた。両親は農作業に追われ、家事は子どもがするものだった。東京に出るとデパートで働き、「合コン」で知り合った男性と交際した。それから山あり谷ありの人生を送って、その男性と50歳で結婚した。
義母との3人暮らし。その義母はすでに認知症が始まっていて、結婚すれば介護するのは自分だと覚悟していた。症状は見る間に進み、一日に何度も「今日は散歩に行ってない」と徘徊を繰り返すようになった。
体が不自由になった夫に当たり散らされる
3年後、夫が脳梗塞で倒れて徐々に右足が動かなくなり、義母も寝たきりになった。
過酷なダブル介護だった。朝6時に起床し、まず2人の排泄の世話をする。女性は体重44キロの体で、85キロもある夫を2階の寝室から1階の居間に降ろさないといけない。肩をかついで支え、夫の足を片方ずつ動かして階段を降りた。朝食のトーストとスープ、ヨーグルトを食べさせると、午後は高齢者施設の清掃などのパートだ。午後2時から4時まで働いて帰宅すると、夕食の準備をし、2人を風呂に入れる――。寝られるのは未明の1時頃という日々が続いた。
女性は家事をしながら眠り込み、気づくと台所の床で朝を迎えていたこともあった。ほかの親族が協力してくれることはなく、夫は「お前がやっていればいいんだ」と当然のように言った。体が不自由になってからはストレスをため込んでいたのか、何かにつけ妻に当たり散らすようになっていた。義母を施設に入れることも、デイケアを利用させることも、夫は「金がかかる」と反対した。
そんな生活でも、うれしかったのは、認知症の義母が寝る間際に言ってくれる「ありがとう」「明日も頼むね」という言葉だった。