1992年をピークに売上が下がり始める

その後、赤坂への移転を経て1929年、工場から出火、火災で店舗・工場もろとも失うが、翌1930年には加賀藩の御用地だった新宿三光町に拠点を移し、近隣の花園神社にちなんで「花園万頭」の製造販売を開始、屋号も「花園万頭本舗」に変更する。

当時の饅頭は1個1銭が相場だったところ、倍の2銭という強気な価格設定で販売していた。ある種のプレミアム感に加え、女性が上品に食べられるようにと配慮された小判形が受け入れられ、「日本一高い日本一うまい」饅頭屋として定着した。

ところが、花園万頭はまたしても困難に見舞われる。

第二次世界大戦の開戦で休業せざるをえず、空襲で店舗・工場を再び焼失、一家は金沢への疎開を余儀なくされたのだ。だが、弥一郎氏は1948年に営業を再開すると、翌年には「ぬれ甘なつと」を世に出し、大人気を博す。「ぬれ甘なつと」は、北海道産の大納言小豆をグラニュー糖で煮詰めたもので、一時は売上高の約7割を占める看板商品となった。

“東京名物”というこだわりから、当時は首都圏近郊に絞って出店を重ね、5代目社長から6代目社長に代替わりした後の1992年6月期には、売上高約47億円を計上する。しかし、これを頂点に売上は下がり始める。

おいしくなった「コンビニスイーツ」の脅威

バブル期の設備投資後、土地価格が下がり、負債が増えたことも収益に影響した。

さらには、百貨店の不振やリーマン・ショックによる景気低迷の余波を受け、2009年6月期は当期純損失約7億6000万円の大赤字となった。その中でも新商品「東京あんプリン」の発売や、金沢で売却した「石川屋」ののれんを借り、西武池袋店等に新ブランド「石川屋本舗梅翁」を出店する。

しかし、やはり売上が伸びることはなかった。かつては火事に戦争と、売上を低迷させる大きな逆境を、そのたびに乗り越えてきた同社はなぜ、ここで伸び悩んだのか。時代背景として今までと大きく異なったのは、コンビニの台頭だ。

日本フランチャイズチェーン協会の統計データによると、調査が始まった1983年には7000店にも満たなかったコンビニは、2000年代に突入する頃には3万8000店余りにまで増加。花園万頭が大赤字となった2009年前後には、4万店を突破していた。

しかも、店舗数が増加し、消費者にとって一段と身近な存在となるにつれて、「便利だが品質はイマイチ」だったコンビニ商品に質的な向上も見られるようになった。その代表格が、およそ2006年頃に始まった“コンビニスイーツ”の進化である。各チェーンのプライベートブランドで、流行が取り入れられ、安価で、しかもおいしいスイーツが続々と世に送り出されるようになった。