はっきり言えば、このような長谷部教授の議論は、アメリカを中心とする第2次世界大戦戦勝国=国連加盟国=平和愛好国を「信頼」して、自国の「安全と生存を保持」する「決意」を表明した日本国憲法の精神の対極に位置するものだ。少なくとも反憲法典的であり、言葉の素直な意味で、立憲主義的でない。さらに言えば、「国家の自己拘束」なる観念論を語り、日本国憲法典の国民と政府の間の「厳粛な信託」を語らないのは、全く立憲主義的でない。

「憲法学者であるか否か」で人々を二分

そもそも長谷部教授の「立憲主義のようなもの」、つまり「法律家共同体」が「法的安定性」の守護神であることが至高の合理性を持っており、「法律家共同体」は絶対に否定されてはならない、という信念は、立憲主義というよりもむしろ、単なる権威主義に近い立場だろう。

実際、憲法学界の「隊長」と称される長谷部教授の著作では、徹底した他者否定と自己肯定が繰り返される。際立つのは、他者と自己を区別する基準が、「憲法学者であるか否か」という点にあることだ。世界は二つの種類の人々に二分される。憲法学者と、憲法学者ではない人々だ。

通常、長谷部教授は、自分が批判する相手の議論を引用したり、具体的に参照したりもしない。ただ侮蔑する。「不思議な議論がここ数年つづいているので、まともに法律を研究している人たちや、憲法学者たちはみんな、まじめに耳を傾けるべき話なのか、正直なところ、とまどっているわけです」(注8)

長谷部教授の議論にはおなじみのレトリックである。こういう場合、長谷部教授は、なぜそう言えるのかを、説明しない。具体的な議論に引き込まれる余地を作ることも避ける。ただ、一方的に高みに立とうとする。

長谷部教授は、憲法学者を、憲法学者であるという理由で、称賛する。わざとらしく引用という形をとった、もったいぶった言い方で、長谷部教授は、次のように言う。

「(シモン・サルブランさんによれば、)日本において憲法学者というのは、ほかの国にはない知的指導者としての位置を占めている、これはなかなかないことである。典型は樋口陽一である……。そうかもしれないと思うのは、イギリスにしてもアメリカにしても、ほかの国では、厳密な意味での憲法問題についてしか、憲法学者の意見が求められることはないということです。その点、日本は少しちがいます。厳密な意味での憲法問題でなくても、憲法学者はどう考えているのか意見を聞かれることがある。そこは他国と少しちがう、日本の特殊なところかもしれません。ですから、憲法のきらいな人からみると、憲法学者がいばりすぎだ、口を出しすぎだ、と頭にくることがあるのかもしれない。もっとも、自分だって目立ちたいのに、というただの嫉妬心からかもしれませんが」(注9)