※本稿は篠田英朗『憲法学の病』新潮新書の一部を編集部で抜粋・再編集したものです。
「八月革命論」というアクロバット
日本の憲法学のガラパゴス的な性格を決定づけたのは、宮沢俊義(編集部注:1934~1959年、東京帝国大学法学部教授、憲法学第一講座担当)の「八月革命」説であろう。「八月革命」とは、日本がポツダム宣言を受諾した際に、「天皇が神意にもとづいて日本を統治する」天皇制の「神権主義」から「国民主権主義」への転換という「根本建前」の変転としての「革命」が起こったという説である(注1)。この「革命」があったからこそ、日本国憲法の樹立が可能になったという。
かなり荒唐無稽な学説である。敗戦の決断であったポツダム宣言受諾を、革命の成就と読み替えるのは、空想の産物でしかないことは言うまでもない。国際的に全く通用しない学説であるばかりではない。日本国内ですら、かなり特殊な社会集団の中でしか通用しない学説だろう。
宮沢は、「法律学的意味における革命」が起こったという説明が、日本国憲法成立の法理のために必要だ、と主張し続けた(注2)。しかしその宮沢自身ですら、ポツダム宣言によって「日本の政治は……国民主権がその建前とされることとなった」とするだけで、「国民」がどのような「革命」を起こしたのかを説明することはしなかった(注3)。「革命」とは、しょせんは「根本建前」のレトリックの話でしかなかったことを、宮沢は認めていた。
しかしそれでも宮沢の弟子筋の憲法学者の間では、「八月革命」説は非常に強く支持されてきた。旧憲法から日本国憲法への改正は不法であって無効だと論じられる、と示唆した大石義雄・京都大学教授は退けられた。そして宮沢の弟子にあたる芦部信喜は、「八月革命」説を擁護し続けた(注4)。佐藤幸治・京大教授の広範な「八月革命説」批判も退けられた。そしてやはり宮沢の弟子たちが、「八月革命」を擁護した。「憲法成立の事実経過の説明とみるならば、難点がないわけではない」が、「成立の法理を説くものとしては妥当」だとされた(注5)。