英米法に連なる日本国憲法をドイツ国法学で解釈
長谷部教授は、立憲主義を駆使して、集団的自衛権の違憲性を説明することはしない。むしろ突然、国家の「合理的な自己拘束」が集団的自衛権違憲論である、と話を変えてしまう。そして一度自らを拘束する規則を作ったのだから、それを守っていかなければならない、という「法的安定性」に話を持っていく。「アイスクリームを食べる権利は誰にもあるが、自分は健康のことを考えて食べないことにするというのが背理でないのと同様に」、集団的自衛権は、「合理的な自己拘束」として、違憲だという。
そして「いったん有権解釈によって設定された基準については、憲法の文言には格別の根拠がないとしても、なおそれを守るべき理由がある。いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもない」という理由で、集団的自衛権も違憲にしておかざるをえないのだと主張する(注4)。
この長谷部教授の議論は、少なくとも「公」と「私」の区分による長谷部教授自身の「立憲主義」とは、全く関係がない。
国家が自らを自己拘束する、というのは、まったく19世紀ドイツ国法学的な観念論である。実際の言説は、せいぜい内閣法制局の役人によって書かれたものにすぎない。いちいち国家が自己拘束しているなどと大げさなことを言う観念論は、あたかも何か実質的なことを語っているかのような印象だけを作り出そうとするものだ。
「国家は仮想の人格であり、人為的構成物である。生身の個人とは異なり、仮想の人格は自己保存への権利を持たない」としたら(注5)、なぜその人工構成物が自己拘束などをすることができるのか? なぜ『憲法と平和を問いなおす』は、150頁以降に「立憲主義」が登場しなくなってしまうのか?
長谷部教授は、あるときは「国内的類推(国家を擬人化して国際社会を捉える発想)」を拒絶しながら、集団的自衛権は違憲だと主張するときだけは密かに「国内的類推」をしのびこませている。それは「国内的類推」のダブル・スタンダードであり、そもそも「立憲主義」のダブル・スタンダードである(注6)。