憲法解釈は憲法学者に委ねよ?

長谷部教授は、「日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない」などと主張した。そのうえで憲法の「解釈適用は、最後は専門の法律家の手に委ねられる」と平気で主張した(注2)。つまり、長谷部教授好みの「穏健な平和主義」が正しいのは、文言解釈にはとらわれない憲法学者の解釈に憲法解釈を委ねることが、憲法学者が信じる最も正しい憲法解釈の方法だからである。こうした主張をへて、長谷部教授は、自衛隊の合憲性を導き出そうとした。

それでは集団的自衛権はどうか。実は、長谷部教授は、立憲主義の観点からは、集団的自衛権の違憲性を、全く説明しない。集団的自衛権違憲論は、長谷部教授の「立憲主義」とは、実は、関係がない。

長谷部教授によれば、立憲主義は、「公」と「私」を区分し、「公」が「私」に介入しないようにすることから、生まれる。価値規範が多様なリベラル・デモクラシー=立憲主義体制においては、「私」の意見の内容を、「公」が決めることができない。そこで「公」による「私」の領域への介入を不当なものとして禁止するのが、長谷部教授が説明する立憲主義の本質である。「公」が担当するのは、社会を維持するのに必要な「調整」問題だとされる。

「立憲主義は、大雑把にいえば、憲法を通じて国家を設立すると同時に、その権限を限定するという考え方です。限定することがなぜ必要かと言えば、多様な世界観を抱く人々の公平な共存を可能にするために、公私を区分し、国家の活動領域を公のことがらに限定するためだと言うことができます」(注3)

長谷部教授は、絶対平和主義にもとづく自衛隊違憲論を排する。なぜなら、絶対平和主義が一つの特定の価値観を他人に押し付ける行為だからだという。そこで「私」の領域の多様性を守るために、最低限の自衛権の行使が認められる。これが、長谷部教授が説く立憲主義的な平和主義であり、護憲派の自衛隊合憲論である。

だが、そこからどうやって集団的自衛権の違憲性が導き出されるのか? 集団的自衛権を合憲と考えると、「公」による「私」の侵食が生まれ、立憲主義が崩されるということになるのか?