「愛想笑いを浮かべなくても仕事ができる程度」になる

私はこうして文章を書く仕事を生業にしていることもあり、日常的に「原稿のネタになりそうなことはないかな」と探すことがクセになっている。それは仕事中もしかりで、すべての仕事において、何かしらネタを獲得したいと考えながら業務にあたっている。今回の取材でいえば、もっとも低い立場から現場全体を俯瞰してみた結果、見えてきたのが「愛想笑いを浮かべなくても仕事ができる程度」でいることの重要性だった。

「滅私奉公」という言葉もあるように、仕事をするにあたっては、クリエイターや俳優など一部の職業を除き、自己主張をしたり、本音をそのまま表現したりするような所業は控えるほうがよい、といった風潮がある。また、いわゆる“エラい人”は立てなければならない、とも教えられてきた。

今回話題にしている取材現場についていえば、取材陣が何度も愛想笑いをしたことで、取材を引き受けてくれたご家族はより気持ちよくしゃべることができたのかもしれない。だから「必要な愛想笑いだった」と主張されたとしても、それを否定する気はさらさらない。

愛想笑いの多くは「空気の読み過ぎ」で起きている

しかしながら、自分がその場の空気に押される形で愛想笑いをするかどうかは、また別の話だ。私はその現場で、男の沽券(こけん)というか、無駄なプライドとして、「愛想笑いは絶対にしねーぞ」と途中から決めた。本当に面白かったら笑う。そうでなかったら無表情でいる。それでよしとした。

愛想笑いをする人はとかく「無理にでも笑わないと雰囲気が悪くなるのでは」と、周囲の空気を読み過ぎているものだ。別にそこまで笑わずとも仕事はキチンと進むだろうに、とにかく「愛想笑いも仕事の一部」と考えている節がある。

なぜこうなってしまうのか。「世間的に、そういう空気になっているから」ということが大きいのだろうが、私自身は広告代理店のサラリーマン時代に同僚の営業担当から愛想笑いを強要されたことが、いまでもある種の違和感として心に残っているのだ。