畠山家の家督を争った、政長と義就は興味深い人たちだ。この時代を象徴する人物である。政長は政治力に長け、勝元死後も細川家との同盟を維持し、管領の地位を保っている。そして、勝元の息子の政元が1493年に明応の政変を起こしたとき、自害に追い込まれている。細川家の幕府乗っ取りのクーデター、管領家独占が完成する事件である。政長の生涯を追うことは、この時代のメインストリームを理解することである。

中央政界での地位を使って権力を維持しようとした政長に対して、義就は地元紀伊(和歌山県)にこもり、地元の土豪を掌握して対抗した。中央の権力を介入させない地盤を地方に築いたのだ。幕府の権威に頼らず、独自の軍事力で自らの権力を築いた畠山義就こそ、最初の戦国大名だと評する論者もいる。

政長と義就の個性に注目して答えさせるなら、その受験問題は良問だろう。

戦国時代はいつから始まったか

一方、斯波義敏と義廉の違いを答えさせるなど、悪問だ。何の意味があるのかと思う。正直にいうが、私は室町の本を2冊書いているが、義敏と義廉の違いなど、いまだについていない。必要があるときに毎回調べなおす。実際、室町時代の歴史において、とくに重要人物でもないのだ。

むしろ、朝倉孝景のほうが重要人物である。孝景は、義廉の守護代として乱で大活躍していた。これに敵の大将である細川勝元が目をつけ、孝景は東軍に裏切る。見返りは、守護の地位である。下の者が上の者にとって代わることを下克上といい、戦国時代の代名詞のごとく語られる。朝倉孝景は栄えある(?)下克上第一号である。織田信長に滅ぼされるまで繁栄する、戦国朝倉氏の祖である。

細川勝元の行為は重大である。西軍の有力武将を引き抜くのはよいが、味方の斯波義敏の立場はどうなるのか。義敏は斯波家の惣領の地位とそれに伴う領地をめぐって争っているのだが、本拠地の越前をかつての部下の朝倉孝景に奪われた。かくして斯波氏と朝倉氏は越前の支配権をめぐって争うが、朝倉孝景は実力で越前を支配した。

室町幕府は権威主義体制で、守護と守護代には越えられない身分の壁が存在した。いくら下の者に実力があっても、越えられない壁である。ところが、細川勝元がその壁を壊した。これが、応仁の乱から戦国時代が始まるといわれる所以である。かつての通説だった。

ところが最近は、1477年に終わる応仁の乱ではなく、1493年の明応の政変を戦国時代の開始と捉える説が有力だ。このとき、細川政元は将軍親衛隊(奉公衆)を解体している。これが戦国時代の到来を象徴する決定的事件だというのだ。