石田三成を中心とする西軍と徳川家康率いる東軍がぶつかった関ヶ原の戦い。西軍の小早川秀秋の寝返りが勝負を決めたと言われているが、石田家と小早川家の両家に遺恨はないのか。現当主に「本当に伝えたい関ヶ原の真実」を聞いた。
直系の石田、養子の小早川、対照的な系譜
――関ヶ原では、歴史を分けるような確執があった両家。日本史ファンにとっては実に興味深い対談です。石田さんは三成から数えて15代目ですね。
【石田】関ヶ原合戦の後、三成の嫡男・重家は助命されて仏門へ。3代目の直重は、結城秀康(家康の次男)との縁もあって越前松平家の分家、越後高田松平家の家臣となります。しかし三成の血筋の者をかこっているということで、直重に関する史料はすべて抹消されてしまった。家臣たちの忖度なのでしょう。そのへんが、子孫としてはつらい部分かもしれません。
――そのころからずっと石田姓ですか。
【石田】そうです。それはいいことでした。三成の次男・重成の家系は津軽の杉山家になるのですが、明治維新後も石田姓に戻していませんね。
その後、お家騒動があって越後高田松平家は美作国津山(現岡山県)に移ることになった。しかし石田の先祖たちは妙高高原の新田開発を行っていたため地元に残った。それで4代目から庄屋になって今に至ります。養子も入らず、三成の血を受け継いできた。不思議なくらいずっと男の子が生まれていて、血がつながっている。私の5歳の孫も男の子です。
【小早川】家康の差配の結果ですよね。
【石田】合戦後は三成以外の命を救ってくれた。当時としてはめずらしい沙汰だと思います。
――代々受け継がれている石田家ならではの伝統などはありますか。
【石田】みんな、お腹が弱いこと(笑)。私も、試験などの前に緊張してお腹が痛くなる。戦国大名の病名を記している本によれば「過敏性腸症」。それを我が家では“三成腹”と呼びます。私の息子が腹痛で医者に行ったとき、過敏性腸症と診断されて苦笑しました。